本能寺の変で織田信長を自害に追い込んだ明智光秀ですが、最初から険悪の仲だった訳ではありません。
なぜなら、織田信長の信頼を得て、低い身分から出世してきた人物だからです。
裏切りには多くの議論がありますが、謎の多い人生を送ってきたことでも有名です。
ここでは、明智光秀の生涯とエピソードをご紹介します。
明智光秀の生涯
明智光秀の出自について、分かっていることは多くありません。
美濃国土岐の本家から分かれた一族である庶流だったため、他の戦国武将と違い、詳細な情報が残っていなかったのでしょう。
そんな明智光秀が歴史に登場するのは、越前国の朝倉義景に仕えてからになります。
その前は、室町幕府将軍の足利義輝に仕えていましたが、1565年の永禄の政変により自害してしまったため、浪人となっていました。
浪人時、朝倉義景に能力を認められ、仕えるようになったのです。
この後は、主君である朝倉義景に足利義昭が接近したため、明智光秀も上洛に向けて協力するようになります。
織田信長との関係は、上洛への協力要請を取り次いだ時にあったと考えられており、朝倉義景に仕えていた時に出会いがあったと言えます。
また、1569年に起こった本圀寺の変でも繋がりがありました。
1570年の金ヶ崎の戦いでは豊臣秀吉と共に防戦に成功した後、1571年の比叡山焼き討ちの実行部隊として武功をあげます。
明智光秀が織田信長の家臣になったのは、このタイミングでないかと考えられており、これまでの武功が評価された結果だと言えるでしょう。
1575年に織田信長から丹波国の攻略を命じられ、1579年まで数年かけて平定に尽力しました。
その翌年1580年には、丹波国攻略が成功したことを織田信長から称えられ、両者共に良好な関係であったことが分かっています。
織田信長も他の家臣に対して、明智光秀を見習うようにと褒めたたえていたそうです。
しかし、1582年に状況が変わり、明智光秀は家臣に対し織田信長を討伐する意を伝え、本能寺の変を起こします。
その後、山崎の戦いで豊臣秀吉軍と対決しますが、坂本城に向けて逃げている最中に亡くなります。
明智光秀はここで生涯を終えましたが、享年や死因にも諸説があり、いつ、どのような経緯で亡くなったのか、未だに確定していません。
明智光秀のエピソード
出自から最期まで、様々な説のある明智光秀ですが、本能寺の変後の死亡説を覆す説もあります。
それが、明智光秀生存説です。
これは「南光坊天海」という僧侶になり、生きていたという説になります。
本能寺の変の後、京都宇治の専修院や神明神社、大阪の本徳寺などが追われていた明智光秀を保護していたのでないかと言われています。
特に本徳寺には、明智光秀の肖像画が残されているだけでなく、そこに仏門に入り去ったということが記されています。
そのため、明智光秀は出家し生き延びたと考えることができるのです。
また同一人物である根拠の一つとして、例えば、明智光秀の坂本城に南光坊天海の墓があることが挙げられます。
坂本城に墓を作ったのは、偶然にしてはできすぎていませんか?
関連があるからこそ、墓があると考えることができるでしょう。
さらに、南光坊天海は1609年頃から、徳川家康の政治参謀として活躍した際、ある事件を引き起こしたことも、正体を明らかにする根拠として数えられています。
その事件とは、「方広寺鐘銘事件」です。
これは、大仏の開眼供養の日程など許可を得ていたにも関わらず、延期になってしまった事件になります。
豊臣側からすると、徳川家康に許可を取って行っていたことが、後から延期を命令されたため、納得がいかないのは当然のことです。
そして驚くべきは、延期の理由です。
鐘銘の文字に「国家安康」と「君臣豊楽」があったこと、特に国家安康が徳川家康の体と首が分断されることを意図しているのでないかと疑われたのです。
確かに、国家安康に家康の漢字が使われていますが、上記のような意図があると考えるのはどうでしょう。
本来2つの文字は、徳川家、豊臣家両家にとって良い意味を込めて刻まれたものですが、思わぬ事件に発展してしまったのです。
南光坊天海はこの事件で、豊臣家を攻めるきっかけを作ったのでないかとも言われています。
実際にその後、1614年に起こった大坂冬の陣が起こっています。
偶然起こった事件だとは、考えにくいでしょう。
刻まれた文字に対するこじつけだと考えることもできますが、話はそう単純ではありません。
元々の徳川家と豊臣家の関係性から考えると、もしかするとどこかでお互いを潰し合う機会を狙っていたのかもしれません。
ここが丁度良いタイミングだったのでしょう。
仮に南光坊天海が明智光秀だったとすると、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の運命を変えた人物だったと言えます。
まとめ
ここでは、明智光秀の生涯とエピソードをご紹介しました。
出自から最期まで未だに詳細が不明な部分がありますが、織田信長と出会ってから能力を評価され、厚い信頼関係を築いていったのは事実です。
山崎の戦い後、明智光秀が生存していたと仮定すると、豊臣家が滅亡したきっかけは彼にあると言っても過言ではありません。
どのような形であれ、時代を象徴する戦国武将の命運を分けたことは明白です。