現存12城その⑪「宇和島城」

歴史

現存天守12城の1つである宇和島城は、愛媛県宇和島市にあります。
江戸時代初期から明治になるまで、9代にわたって西国の伊達の居城となっていた城であり、その由来は平安時代までさかのぼります。
宇和島城には、どのような歴史があるのでしょうか?
特徴的なエピソードとともに、紹介します。

宇和島城の歴史

宇和島城は、941年に砦として建造された板島丸串城の跡地に築かれた城です。
室町時代や戦国時代も活躍した城で、1587年には一揆勢に包囲されたこともありましたが、その翌年に入城した戸田勝隆によって完全鎮圧されています。

1595年に藤堂高虎が入城し、板島から宇和島と改めます。
そして翌年に本格的な築城工事を行い、城の建造を開始します。
1600年には関ケ原の戦いで戦功をあげ、高虎は元々の七万国に伊予半国二十万石を加増されました。

その加増に伴い、高虎は今治に転出します。
板島丸串城には従弟の藤堂良勝を城代として置き、1601年に築城工事が終わり新たな城が完成します。

1604年には河後森城の天守を板島丸串城に移設し、月見櫓としています。
そして1608年に富田信高が宇和島十万国を拝領して城主となったのですが、1613年に改易となって藤堂良勝が幕府直轄領となった宇和島の代官として入城します。

1614年には、独眼竜で有名な伊達政宗の長男で庶子である伊達秀宗が10万石で宇和島に入封し、それ以降は仙台伊達家の別家として宇和島伊達家が幕末まで9代にわたり城主を勤めます。

1617年には、徳川秀忠から伏見城の千畳敷御殿が贈答され、三之丸に移築されます。
宇和島城と呼ばれるようになったのは、このころからです。
1649年に大地震が起こり、石垣116間と長屏780間が破損し、翌年から本丸を中心として石垣の修理に取り掛かります。

1662年になると、2代藩主の宗利が天守を始めとして城郭全体の回収に着手します。
天守の鯱は、1665年に大坂鋳物師に注文したものです。
天守の建築は1666年に完了し、現代まで残されています。

安政の大地震が起こった1854年には、城内が多く破損して天守も破損、矢倉や本丸石垣なども多くが破損・倒壊しました。
1857年にその破損個所の修復願を届け出て、1860年に万延の大改修と呼ばれる大掛かりな修復工事が行われました。

明治時代になると城は兵部省に帰属し、1934年には天守と追手門が当時の国宝に指定されます。
また、1937年に国の史跡に指定されています。

太平洋戦争末期の1945年には、宇和島空襲によって追手門が焼失します。
1949年に伊達家が天守と城山の大半を市に寄付し、市の管理下に置かれるようになりました。
その翌年、文化財保護法によって天守が重要文化財に指定されます。

1960年から1962年にかけては、天守の解体修理も行われています。
2006年には日本100名城の83番に指定され、2016年に作事所跡なども国の史跡として指定されている「宇和島城」に追加指定されることとなりました。

宇和島城のエピソード

宇和島城では、1666年に天守を建築する際は幕府に届け出を出しています。
しかし、実はその時に出されたものは修理という名目で、新たに建てるという者ではなかったのです。

この時行われた工事は改修ではありますが、実際には土台が岩盤だったのを石垣に変更し、天守の構造は複合式望楼型から独立式層塔型へと変わっています。
また、外観も下見板張だったのが白漆喰総塗込になり、元の天守とは似ても似つかない天守となったのです。

この天守は、これ以降も修復工事などが行われているものの、現在まで当時の姿を残したままであり、現存12天守の1つとなっています。
築城当初ではなく、伊達家2代城主の宗利が建築したものなのです。

また、1860年に行われた万延の大改修では天守の大規模な修復工事が行われたのですが、工事の際に10分の1サイズの精巧な城の模型が作られています。
その模型は、現在も天守1階に展示されています。

宇和島城を築城したのは藤堂高虎ですが、この築城についても謎があります。
宇和島城は五角形になるよう設計されていて絵図面も残っているのですが、城主が伊達秀宗の頃に江戸幕府の隠密が調査して大目付に提出した報告書では、四角形とされているのです。

隠密は城山に潜入することができなかったので、下から城を見上げたり近くを歩いたりして地道に情報収集を行い、推測も交えて報告したのです。
だからと言って、五角形と四角形を間違えるでしょうか?

実は、当時の城と言えば基本的に縄張りが四角形だったのです。
そのため、詳細を調べることができなかった隠密は当然四角形だと思っていたのですが、実はその常識を覆す五角形になっているところが、藤堂高虎の戦術だったのです。

城攻めの計画も、縄張りの形が異なればうまくいきません。
四方から攻めても、1辺が空いているため脱出するのも容易な抜け道となるのです。
また、報告書には天守の階層も、3段のところを4段と報告されています。

まとめ

宇和島城は、元々平安時代からあった板島丸串城の跡地に築城されたもので、歴史を語る上ではその時代まで遡ることとなります。
独眼竜政宗として知られる伊達政宗の長男から9代にわたり伊達家が城主を勤めていて、現在は仙台市と宇和島市が姉妹都市となっています。
当時は斬新だった五角形の縄張りなど、先人の工夫が詰め込まれた宇和島城は、歴史好きなら一見の価値があるでしょう。

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