戦国武将の中でも、人気が高い織田信長。
織田信長は戦国の大英傑の一人とも言われ、誰もが知っている数多くのエピソードが残っています。
多くの人を引き付ける織田信長の魅力は、何なのでしょうか?
ここでは、織田信長の生涯と特徴的なエピソードをご紹介します。
織田信長の生涯
織田信長は尾張国(現在の愛知県)出身で、織田信秀と土田御前との間に生まれました。
家督争いの後、1560年桶狭間の戦いで今川義元を打ち取り、勢力拡大を図り徳川家康と同盟を結び、犬山城の織田信清を破ることで、1565年に尾張国の統一を果たします。
また、室町幕府再興の呼びかけを受け、1568年に室町幕府第15代将軍に足利義昭を就任させています。
その流れで織田信長は、室町幕府と連合政権による統治を目指しますが、簡単にはいきません。
1570年、姉川の戦いで浅井長政・朝倉義景の連合軍を破るものの、畿内で活動している三好三人衆や比叡山延暦寺などの勢力に追い詰められてしまいます。
さらに比叡山と対立したことで、1571年6月に比叡山焼き討ちが行われ、僧侶だけでなく、上人や児童が犠牲になります。
しかし状況が好転することはなく、三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れ、その後本来なら協力関係にある足利義昭と敵対し京都から追放しました。
連合政権による将軍を失ったことで、天下人として織田信長は動き出します。
1575年、長篠の戦いで鉄砲を主力とした戦略で武田勝頼を破った後、室町幕府に変わる新政権を作り上げ、1576年には安土城の築城を開始しました。
1582年には甲州征伐を行い、東国の大名の多くを従えることに成功した後、土佐国の大名長曾我部元親討伐のための四国攻めを自身の三男信孝に指示します。
それと同時に毛利氏討伐のため、織田信長自身も中国地方へ行く準備を進めていた際に、明智光秀の謀反で自害に追い込まれます。
この出来事は「本能寺の変」と呼ばれ、1582年織田信長は49歳で生涯を終えました。
織田信長のエピソード
織田信長は、幼少時代に「大うつけ」と呼ばれていたことで有名です。
瓜や栗を食べながら歩き、他の人と違う異様な格好で歩いていたそうです。
また、父織田信秀の葬儀では位牌へ抹香を投げるという信じられない行為をしていますが、現在でも天才性の象徴として語られています。
しかし、成人し天下人を目指そうと行動した織田信長の評価は異なっています。
成人後は、世間からの評価を重視し行動していることが多く、彼が行った政策もそれを体現しています。
天下人になるためには、民衆の支持を得なければなりませんから、意識していたのでしょう。
さらに、趣味と異国に対する関心の高さも有名です。
織田信長は茶の湯に関心を示し、茶道具を収集する「名物狩り」を行うまでになりました。
織田信長は茶の湯を純粋に楽しんでいたところもありますが、本来の目的は政治的な権威付けを狙ったものでした。
茶の湯の政治的利用は、豊臣秀吉にも受け継がれています。
また、相撲見物も好んでおり、安土城で大きな相撲大会を開催したことで記録されています。
相撲大会で成績が優秀だった者は、褒美が与えられるだけでなく、家臣として採用されることもあったようです。
そして、織田信長は異国の文化、新しいもの好きとして有名な通り、西洋や中国の文化に関心を持っていました。
当時イエズス会から献上された時計や地球儀に関心を示すだけでなく、イエズス会から医師を派遣し、病気の家臣の治療を行わせていました。
それと同時にイエズス会の宣教師には、安土城を描いた屏風絵を贈っています。
また、アフリカ出身の黒人を譲り受けたことも有名なエピソードの一つです。
黒人は、「弥助」と名付けられました。
その際、本当に肌が黒いのかを確かめるために、上半身を脱がせ身体を洗わせたところ、肌が一層黒くなったと驚いたそうです。
加えて、弥助は日本語が少し分かったため、話が合い、短刀や屋敷が与えられ、主君である織田信長の武器を運ぶ側近になっていました。
最後に、織田信長の性格は、よく残虐だと言われます。
確かに、織田信長の人生を振り返ると、常に多くの敵対者がおり殺害した記録が残っています。
それを裏付ける出来事が、長島一向一揆です。
長島一向一揆では男女合わせて2万人を焼殺し、その行為で気を晴らしたとされています。
別の出来事では、敵方の降伏を条件にして助命を約束したにも関わらず、降伏後に約束が守られず虐殺を行ったこともありました。
このようなエピソードの多さから、単に気が荒いという表現では済まされません。
しかし、このような敵対勢力に対する残虐行為は、当時の戦国大名の考え方からすると珍しいものではありません。
当時の事情を知ると、極端な残虐性のイメージが先行していることが分かります。
まとめ
戦国武将のカリスマとして知られる織田信長は、一筋縄でいかない人物です。
敵対勢力に容赦しない姿勢を示すと同時に、趣味や異国の文化など新しいものに関心を示し、時代を先駆けていた存在です。
しかし、天下人となるべく世間の評価を重視して行動している面もあるため、冷静な一面も持っています。
天下統一を果たす前に命を落としたことは、その後の歴史に大きな影響を及ぼしたと言っても過言ではありません。