天下人「徳川家康」

歴史

苦労した人生を送りながら、最終的に全国を治めることとなった徳川家康。

徳川家康の長い人生を振り返ると、全国支配を達成するまでの苦労や努力が分かるはずです。

また、江戸幕府が存続できたのも、徳川家康の人生経験が関わっています。

今回は、徳川家康の生涯やエピソードについてお話ししましょう。

徳川家康の生涯

徳川家康は、1543年岡崎城主松平広忠の嫡男として生まれました、

竹千代という幼名で呼ばれていたことは有名です。

しかし、穏やかな生活は長く続きません。

1547年、徳川家康が6歳の時、今川家の人質になることが決まったのです。

ですが、徳川家康の義理の父である戸田康光の裏切りにより、今川氏でなく尾張国織田家の人質になってしまいます。

その2年後に織田信秀が今川義元に敗れると、最初の話通り、今川氏の元へ人質として拘束されます。

人質生活を送る徳川家康ですが、1560年に桶狭間の戦いで今川氏を破ると、織田信長と同盟を結び、武将として独立しました。

人質生活の中とはいえ、幼少期に交流のあった織田信長と天下統一のために行動しますが、本能寺の変で亡くなってしまいます。

その後、豊臣秀吉に仕えることになり、その政治下で徳川家康は自身最大の領地を得ることに成功します。

しかしながら、徳川家康と豊臣秀吉の関係は良好でなく、天下統一の実現に向けてお互いに邪魔な存在だと考えていたことが分かっています。

加えて、死後に徳川家康が豊臣秀吉の墓を壊す命令をしていたことも、2人の関係性を表しているエピソードになります。

1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康は勝利し、1603年に征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きます。

最終的に天下人として、一時代を築き上げた徳川家康は1616年に75歳の生涯を終えました。

徳川家康のエピソード

1615年の大坂の陣で豊臣家を滅ぼした後、徳川家康は真の全国支配体制を確立します。

江戸幕府の基礎を作り上げた徳川家康ですが、その根底には長い人質生活の経験が役立っています。

徳川家康は倹約家として有名で、天下人になり財産のある状況になっても、昔からの質素倹約生活を続けていました。

人質生活で贅沢ができないことを、幼いながらも理解していたのです。

その様子が分かるエピソードには、手洗い時に懐紙が飛んでしまった際、その紙をわざわざ取りに行き、家臣に笑われてしまったことが挙げられます。

家臣たちは、わざわざ取りにいかなくても、近くにある新しい懐紙を使えばいいのにと思ったのでしょう。

ですが、飛んでしまった紙であっても使えることに変わりありません。

徳川家康は、今でいうところの「もったいない」の精神を徹底していたのです。

その他にも、汚れが目立ちにくい浅黄色の褌を愛用し、洗濯の回数を減らすようにしたり、着物をボロボロになるまで着ていたりするエピソードが残っています。

天下人ならぬ価値観と思われてしまいますが、幼少時代の経験は徳川家康に大きな影響を及ぼしたことに間違いありません。

歴史の流れで見ると、江戸幕府は後半、財政難に陥り、その解決が大きな課題になっていきます。

歴代の将軍たちも徳川家康の生活や価値観を知っており、困難な状況になった時は参考にしていたかもしれません。

また、徳川家康は長生きした武将としても有名です。

長生きの秘訣は、運動や食事など健康面に気を遣っていたところにあります。

例えば、鷹狩や乗馬で体を動かしたり、麦飯や煮物のように贅沢でない食事をしていたりしました。

現代でも、適度の運動やバランスの良い食事は健康に欠かせませんから、先駆けて実践していたと言えます。

さらに、徳川家康は健康面への配慮として、漢方薬も服用していました。

それだけでなく、漢方薬の調剤も徳川家康が行っていたため、漢方の知識にも精通していたのです。

徳川家康の孫である徳川家光が病に罹った時、自分で薬を調合し、それを飲ませたというエピソードが残っています。

健康的な体を意識していたことで、長生きになったと言っても過言ではありません。

戦国武将は、健康に気を遣うかどうかに関わらず、いつ自分が亡くなってしまうか分からない状況に常に置かれています。

仮に成功を収めても、自分が生きていなければ天下は長続きしません。

長生きできるかどうかは、自分で意識して生活するかにかかっているのです。

特に幕府における政治体制を長続きさせるには、そのノウハウを2代目、3代目へと伝える準備をするとともに、土台を万全なものにしなければなりません。

万全にするためには、徳川家康自身が少しでも長く生きることが必須なのです。

健康オタクの側面を持つ徳川家康ですが、政治的にも健康であることが要求されていたと考えることができるでしょう。

これまで徳川家康と関係のあった織田信長や豊臣秀吉とは違った、政治に対する意識として捉えることができます。

まとめ

徳川家康は、幼少期の長い人質生活経て、天下人になった苦労人です。

織田信長の死後は、豊臣秀吉と対立することが多く、お互いに意識し合っていた関係性でした。

江戸幕府を開いてからは豪勢な生活を送ることなく、今まで通りの質素な生活を送り、幕府存続の土台を作り上げました。

健康に気を遣っていたことも、政治的基盤を確立するために必要だったのでないかと捉えることができます。

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