刀伊の入寇で活躍した「藤原隆家」

歴史

中関白家の没落の背景には、藤原伊周だけでなく、藤原隆家も関係しています。
長徳の変で藤原隆家も左遷することになりますが、後に功績を残すこととなるのです。
藤原伊周とは違った人生を送った藤原隆家は、どのような人物だったのでしょうか?
今回は、藤原隆家の生涯とエピソードをご紹介します。

藤原隆家の生涯

藤原隆家は、藤原道隆と高階貴子の次男として生まれます。
藤原道隆の正室以外の息子も含めると、4男にあたります。
989年に元服し従五位下に叙爵されると、990年には侍従に任官します。

藤原道隆が政治の中心で活躍していた時は武官として昇進し、995年には権中納言に任ぜられました。

しかし、藤原道隆が薨去し、藤原道長に政権が移ると同時に、数々の事件が起こります。
藤原隆家、藤原道長の従者が七条大路で乱闘したり、自分の従者が藤原道長の随身を殺害したりしました。
また、藤原隆家は兄藤原伊周と共に長徳の変に関わっていたことから、その罪により出雲権守に左遷されます。

998年に藤原詮子の御悩による大赦を受け帰洛が許されると、官界に復帰します。
さらに権中納言に復し、1009年に中納言に叙任されますが、藤原隆家はこの状況を素直に喜べなかったことでしょう。
なぜなら、藤原定子や藤原伊周亡き後の一族の命運が、藤原隆家にかかっていたからです。

実際、敦康親王が即位する場合、藤原隆家の輔佐を期待する声が世間からあったそうです。
良い政治が行えると、期待されていたことが分かります。

ですが、藤原隆家は1012年末頃より眼病を患い、家の中に閉じ籠るようになってしまいます。
ところが、目の治療を行う唐人の名医が大宰府にいることを知り、自ら大宰権帥の任官を望み、1014年にその希望が叶います。
大宰権帥を辞した後は、内裏出仕を控えていたため昇進をすることがなかったようです。

中関白家の期待を背負いながら出仕していた藤原隆家は、1044年に66歳で薨去し、最終的に前中納言正二位まで昇り詰めました。

藤原隆家のエピソード

藤原隆家は荒くれ者として有名ですが、同時に気骨のある人物としても知られています。
政治の世界において、藤原道隆や藤原伊周を批判することが多かった藤原実資に可愛がられていたため、一目置かれる存在でもありました。
このような経緯もあり、敦康親王が立太子するなら藤原隆家が補佐になってほしいという声が出ていたのでしょう。

そんな藤原隆家には、政治の世界以外で大活躍したエピソードが残っています。
それは、刀伊の入寇を撃退したことです。
刀伊の入寇とは、1019年に女真族の一派を中心とした刀伊の海賊団が対馬や壱岐、九州を襲った事件になります。

刀伊の海賊団は、対馬や壱岐を襲撃し、殺人や放火などを繰り返します。
その後筑前国を襲撃し、博多にも襲撃します。
そしてこの時博多には、大宰権帥として藤原隆家がいたのです。

藤原隆家は眼病の治療のため大宰権帥への任を希望し、それが叶った後に刀伊の入寇が発生しました。
藤原隆家は総指揮官として立ち回り、大宰大監であった老齢の優れた武士、大蔵種材などと共に撃退します。
藤原隆家は専門の武官でなかったのですが、活躍の結果、武名を挙げたのです。

帰京後の昇進はなかったと前述しましたが、刀伊の入寇の功績から大臣や大納言への登用を求める声も少なからずあったようです。
出仕の状況が違っていたなら、藤原隆家はもう少し昇進していたでしょう。
元々藤原道隆の影響で出世していたのですが、中関白家の影響力が弱くなってからは自分の力で評判を上げていったのです。

また、姉の藤原定子や清少納言との関わりが分かるエピソードもあります。
それは藤原定子を訪ね、扇を献上した時の出来事です。

藤原隆家は「誰も見たことのない珍しい扇の骨を手に入れたため、それに合う紙を探している」と言います。
藤原定子がどんな骨なのかと興味を持って聞いたところ、清少納言が一言、「クラゲの骨でしょう」と言いました。
この清少納言の言葉は、言い換えると「その骨はありえないものでしょう」という意味で、皮肉で返していたのです。

それに対し藤原隆家は、「自分が言ったことにしてくれ」と笑いながら言ったそうです。
所謂ホラを吹いたエピソードなのですが、藤原隆家のさっぱりした性格が分かるエピソードになります。
このような人物だからこそ、藤原実資は可愛がっていたのでしょう。

藤原道長に政権が移ってからは荒れた話題が多かった藤原隆家も、平時はもしかすると単に悪戯好きな人だったのかもしれません。

法皇に弓を射かけた藤原隆家ですが、政略的なことがなければ、もっと評価されていた人物に違いありません。
刀伊の入寇の被害を食い止めることができたのは、藤原隆家のおかげです。
国を守った藤原隆家に、中関白家の事情を知っている天皇や他の貴族はとても驚いたことでしょう。

まとめ

今回は、藤原隆家の生涯とエピソードをご紹介しました。
藤原道長に権力が移ると、一族の没落の影響を受け、藤原伊周と共に左遷されてしまいます。
しかし、後に刀伊の入寇を撃退したことから、国を守った人物ということで、評価が変わることになります。
藤原定子や清少納言とのエピソードからも、気骨のある人物で人から好かれやすい性格だったことが分かります。

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