岡山城は、岡山県岡山市にある城で、烏城や金烏城とも呼ばれています。
秀吉とも関りが深く、8年の歳月をかけて築城された城であり、岡山を代表するランドマークとなっています。
岡山城には、どのような歴史があるのでしょうか?
岡山城の歴史と、特徴について解説します。
岡山城の歴史
岡山城は元々、南北朝時代の1346年から1369年の間に石山台に築かれた、名和氏の一族であった上神高直が築いた石山城が起源となっています。
その後、戦国時代に金光氏が居城とするまでは城主の記録がありません。
1570年に、金光宗高を謀殺した宇喜多直家がこの地を支配します。
備前守護代浦上氏の一族である浦上宗景の被官だったのですが、急速に勢力を伸ばしています。
直家は亀山城を居城としていたのですが、1573年に石山城に入城して城を改築し、城下町を形成します。
北方の山裾の西国街道を、城の南側を通るように付け替えて城下に導き、備前福岡や備前西大寺などから承認を呼び寄せて城下町の整備を行うなど、経済振興に取り組んでいました。
1575年に、宗景の兄である正宗を擁立し宗景を播磨へと放逐し、事実上の下克上を行います。
そして、後に備前、美作、さらに播磨と備中の一部を支配します。
直家の子の秀家は、豊臣秀吉の政権下において直家の遺領をほぼ継承して、57万石余りの大大名となりました。
それに見合った城にするため、1590年から1597年まで8年をかけて石山城を大改修し、近世城郭の体制を整えます。
秀家は岡山に本丸を構え、直家時代の城下町を更に拡大整備して領内の有力商人を勧誘し、経済活動の発展に努めます。
築城に当たっては義父の秀吉の意向が大いに働いていたと言われており、この後で城は岡山城、城下町は岡山と呼ばれるのが一般的になりました。
1600年に関ヶ原の戦いに参戦し、西軍の主力となっていた秀家は八丈島への流刑となり、宇喜多家は改易されて小早川秀秋が領主となって入城しました。
秀秋は本丸中の段の拡張を行い、三の丸の外側には15町余の外堀を掘って三之外曲輪の整備をして、城下町の拡大を行います。
しかし、2年後の1602年に秀秋は休止し、嗣子もないため小早川家は断絶しました。
翌年、播磨姫路城主の池田輝政の次男の忠継に与えられたものの、まだ5歳だったので兄の利隆が備前監国となって代政します。
忠継は1613年に岡山城へと入ったのですが、1615年に死去して代わりに弟の忠雄が入封します。
忠雄が本丸中の段を北側に拡張し、本段の御殿や表書院も設け、大手の南門を造り替えて用水路の整備を行い、岡山城の縄張りが完成します。
忠雄の子の光仲が1632年に転封となり、池田光政が岡山城に入封し、それ以降は幕末まで光政系池田氏の居城となります。
1645年に光政が遷宮した東照宮は、岡山状の珍種として存在しています。
明治となり、版籍奉還によって藩主は岡山藩知事になり、岡山城は兵部省の管轄として存城処分となりました。
しかし廃城令によって天守や一部の櫓を除いて建物が取り壊され、岡山県の所有となり岡山中学校が建てられます。
1931年には天守が国宝に指定され、1933年には2つの櫓と石山門も国宝指定を受けます。
しかし、1945年の空襲で天守と石山門は焼失してしまいました。
焼け残った2つの櫓は、文化財保護法に基づいて重要文化財に指定されます。
焼失した天守は、1964年から1966年にかけて鉄筋コンクリートで再建され、同時に一部の建造物も再建されます。
1987年には岡山城跡として史跡に指定され、1996年に築城400年を迎えました。
2006年には、日本100名城の70番に選定されます。
2021年から2022年にかけては、耐震補強などを含めて令和の大改修が実施されました。
岡山城の特徴
岡山城の特徴として、その外壁の色があります。
岡山城の外壁は黒塗りの下見板で覆われていることから、烏城という別名が付けられています。
同じく山陽道にあり白鷺城と呼ばれる姫路城とは、対比されることもあります。
同じく黒い外壁の城としては大坂城があり、岡山城の天守は大坂城を模したものという説もあります。
また、宇喜多秀家時代には金箔瓦があり、随所に用いられていたことから金烏城という別名もあります。
金をふんだんに使うことで、豊臣政権の有力大名だということを誇示していたと見られています。
岡山城は、下層部と上層部の形の違いも特徴的です。
下層部は多角形でどっしりとしているのに対し、その上に小さい四角形の望楼が乗っているため、どっしりと構えた古武士のようにも見えるのです。
また、隣接する後楽園は大名庭園で、日本三名園の1つにも数えられています。
竹やぶや土塁などが残されているので、元々は出城となっていたこともあると思われます。
毎年正月には、タンチョウが訪朝されています。
まとめ
岡山城は古い歴史があり、何度も改修工事が行われてきた城です。
豊臣秀吉とも深い関係があり、黒い壁などの特徴的な外観は大坂城と同様のものです。
城主も何回も替わっている城ですが、最終的には池田氏の居城となりました。
令和の大改修によって耐震性能もアップしたため、今後も長く残り続けることでしょう。
隣接する後楽園と併せて、歴史好きなら一度訪れることをおすすめします。