紫式部の母「ちやは」(藤原為信女)

歴史

平安時代に優れた作品を残した紫式部ですが、母との関係はどうだったのでしょうか?

平安時代の女性が置かれた状況は、現代と何が違うのでしょうか?

当時の状況を踏まえながら、紫式部を取り巻く人物に触れたいと思います。

今回は、紫式部の母ちやはの生涯とエピソードをご紹介します。

ちやはの生涯

ドラマ内で国仲涼子さんが演じる紫式部の母「ちやは」ですが、生涯に関する詳細な記録は残っていません。

分かっていることは少なく、まず摂津守の藤原為信の娘であることが挙げられます。

藤原為信は、平安時代の貴族で紫式部の外祖父にあたり、村上天皇に仕え、965年に蔵人に任ぜられた人です。

そして播磨権少掾を勤めていた藤原為時と結婚し、紫式部と弟の藤原惟規を儲けました。

子どもは1男2女を儲けましたが、紫式部たちがまだ幼い頃に亡くなってしまったとされています。

文献によっては、藤原惟規を産んだ次の年に亡くなってしまったともされており、生没年すら不明の人物です。

ちやはのエピソード

ここからは平安時代の女性の生活環境などを含めて、ちやはの状況を想像してみましょう。

ちやはのみならず、平安時代の女性は早く亡くなってしまうことが多いです。

平安時代の著名な人物においても、父が健在であっても母は早くに亡くなってしまったということが珍しくありません。

それだけでなく、平安時代の女性の平均寿命は約27歳ですので、現代の寿命から考えると全体的に長生きでなかったことが分かっています。

そして、平均寿命が短いことには明確な理由があります。

現代人と違い、結核や皮膚病、脚気といった栄養失調が原因の病気になりやすいのです。

これらの病気は、平安時代の三大死因とも言われています。

ところで、栄養失調になってしまうのはどうしてでしょうか?

これには、平安時代の食生活事情が関係しています。

平安時代の主食は、現代人が一般的に主食として食べている米でなく、粟やひえなどの穀物でした。

なぜ平安時代の人たちは米を食べないのかというと、米は税金として徴収されるものだったからです。

米を税として徴収するのは飛鳥時代から始まりましたが、平安時代においても制度内容に変更があっても米の徴収が続いていたのです。

もちろん、貴族の収入は農民から徴収した米になりますから、貴族たちの生活で米を全く食べなかったということはないでしょう。

しかし、食事の際に肉や魚といったたんぱく質が豊富な食べ物を食べなければ、栄養バランスが偏ってしまいます。

その結果、主食をしっかりと食べていても、栄養が不足し、病気になってしまうのです。

どんなに裕福な貴族であっても、栄養失調を回避することは現状の食生活の常識を大きく変えることになるので、難しかったのでしょう。

また、女性ならではの事情も考えると、出産の影響で命を落としてしまうこともあり得ます。

現代と違い、平安時代は医療技術が発達していません。

また、無事に子どもを出産したとしても、産後の肥立ちが悪いなど体調が良くない状況が続くと、それが原因で亡くなってしまうのです。

ちやはの場合も、紫式部の弟藤原惟規を出産した後、数年で亡くなってしまったとのことなので、出産や子育てが体調に影響したのかもしれません。

もし、ちやはが早世せず、少しでも長生きしていたら紫式部の人生はどうだったでしょう。

貴族の家庭で女の子が生まれた場合、女性らしく過ごすことを徹底させます。

女性の貴族の嗜みとして、文字を綺麗に書く手習いや琴の演奏、和歌を上手に詠めるように勉強をさせました。

和歌の教養に関しては男性も共通する部分があるのですが、女性の場合は男性の顔を頻繁に見ることが許されません。

そのため、魅力的な女性のアピールとして、和歌の内容や字の綺麗さは大切だったのです。

けれども、紫式部は平安貴族の女性に求められる嗜みよりも、漢詩など男性が勉強することに興味や関心がありました。

それに加え、勉強が好きな一面もあったことから、平安貴族の女性の型にはまった行動は向かなかったのでないでしょうか。

平安貴族のお手本となる身近な女性の1人が不在だったことで、他の家と違った形になったはずです。

しかしながら、現代人に置き換えるとどうでしょう。

紫式部のような女性に憧れる人も、決して少なくありません。

むしろ、仕事に邁進している女性として、尊敬の対象にもなり得ます。

まして、現代でも有名な作品を書き上げたのですから、自慢の娘だと思うことでしょう。

才能で活躍できる女性は、ほんの一握りの存在ですし、時の中宮の傍で仕事をしているとは幼少期に思いもしなかったはずです。

ちやはがもう少し生きていれば、紫式部の結婚や働く姿を見られたことでしょう。

平安貴族女性の一般的な姿と違っていたとしても、立派に働いていることを誇らしく思い、応援していた未来も想像できます。

まとめ

今回は、紫式部の母ちやはの生涯とエピソードについてご紹介しました。

ちやはは紫式部たちがまだ幼い時に亡くなってしまい、生涯に関する詳細な情報はあまりありません。

また、平安時代の女性が短命だったのは栄養失調による病気も関係しており、現代のように長生きできたのは珍しいことでした。

少しでも長く生きていたら、紫式部の才女としての姿を見ることができたでしょう。

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