山部赤人と共に歌聖と呼ばれた「柿本人麻呂」

歴史


柿本人麻呂は飛鳥時代の歌人ですが、山部赤人と同じく万葉集を代表する歌人になります。
和歌を知っている人は多いですが、柿本人麻呂の人生には不明点が多くあります。
そして、柿本人麻呂は歌人以外にも、有名な形で現在も語り継がれています。
今回は、謎の多い柿本人麻呂の生涯とエピソードをご紹介します。

柿本人麻呂の生涯

柿本人麻呂の出自は不明で、万葉集の和歌や題詞、注記に記載されていることしか明らかになっていません。
その中で考えられているのは、天武天皇の時代であった680年には出仕しており、持統天皇の時代で活躍していたことです。
山部赤人のように宮廷歌人として活躍していたイメージがありますが、柿本人麻呂の時代にはそのような役目がなかったそうです。

また、柿本人麻呂は複数の皇子や皇女に和歌を奉っていたようなので、特定の人物に仕えていなかったとされています。
とはいえ、高貴な人物と関わっていたことから、当初は高官でないかと考えられていましたが、江戸時代に下級官吏であったと唱えられ否定されています。

柿本人麻呂は、万葉集第一の歌人と言われています。
山部赤人の自然の美しさを詠んだ歌とは異なり、柿本人麻呂は枕詞や序詞などを駆使した和歌を詠んでいるのが特徴です。
長歌、短歌のどちらも、柿本人麻呂以前では見られなかったものが多く、独創性の高い和歌が生まれました。

しかし、藤原京時代の後半や平城京遷都後に確実な作品が残っていないことから、おそらく平城京遷都前に亡くなったのでないかと考えられています。
また、万葉集2巻において讃岐で死人を嘆く歌、石見国の鴨山による辞世歌、詩を哀悼する挽歌が残されています。
これらから、柿本人麻呂は各地を転々としていたのでないかとされ、石見国で亡くなったのでないかと考えられています。

明確な史料が少ないため、死没した場所や時期がはっきりしませんが、残された和歌からは上記のような推測がなされています。

柿本人麻呂のエピソード

柿本人麻呂は、天武天皇の皇子である草壁天皇や、孫の軽皇子とも繋がりがあります。
皇子や皇女に歌を奉っていた柿本人麻呂ですが、草壁皇子が早世した際に挽歌を詠んで追悼したのです。
次期天皇として期待されていた人物に対しての挽歌ですから、優れた歌人が選ばれるのは当然のことです。

また、軽皇子とは、奈良県の宇陀(うだ)を訪れた時の和歌が有名です。
軽皇子に随行していたのですが、この時亡き草壁皇子を偲んで、「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」と詠んだそうです。
この和歌は、草壁皇子のことを慕い、眠れない夜を過ごしている心情を夜明け前の様子から表現しているのです。

期待されていた人物の早世が大きな影響を及ぼしていることを、もしかすると柿本人麻呂は詠んだのかもしれません。
この和歌が万葉集の中でも秀作の1つとして数えられている理由について、研究者でなくても意味を知ると理解できるでしょう。

また、歌聖と呼ばれている柿本人麻呂は、霊験のある存在として、多くの人から崇拝されるようになります。
例えば、歌人として優れていますから、歌が上達するように祈願することがありました。
これは、歌会の際に柿本人麻呂の姿絵と和歌を掲げる「人麿影供」になります。

歌聖のご利益が得られ、和歌が上達すれば様々なことに活かせます。
上達したいという願いやそれに関連する行動には、現代人にも共通することがあるはずです。
柿本人麻呂の優秀さは、歌聖という評価から伝説化され、多くの人に語り継がれていきます。

その代表例として、柿本人麻呂を祀っている神社が全国にあります。
神社における柿本人麻呂は、歌人でなく、防火や安産の神として崇められているのです。
防火や安産は、柿本人麻呂と無関係のように見えますが、「人麻呂」にヒントがあります。

人麻呂の解釈を、「火止まる」、「人生まる」とするとどうでしょう。
このような解釈をすると、防火、安産の神として崇められている理由に納得できるでしょう。
しかし、柿本人麻呂の伝説化はこれで終わりではありません。

様々な信仰の対象となったため、伝承が複数存在するのです。
その結果、頭上に11の顔を持ち、全ての方向を見守っている観音菩薩である十一面観音の化身とされるようにまでなります。
歌人を超えてしまった伝承に、驚くでしょう。

柿本人麻呂は万葉集時代から称えられていましたが、平安時代後期以降になるとより拍車がかかります。
そうなるほど、柿本人麻呂は素晴らしい歌人だったと言えるでしょう。
現代でも柿本人麻呂の和歌は素晴らしいと紹介されますが、過去においても評価は変わりません。

このような経緯から、最も知名度の高い歌人と言っても過言でないのです。

まとめ

今回は、柿本人麻呂の生涯とエピソードをご紹介しました。
柿本人麻呂は持統天皇の時代に活躍していた宮廷歌人で、万葉集第一の歌人と言われるくらいの人物でした。
皇子や皇女に多く和歌を奉っていましたが、早世した草壁皇子に対する挽歌は特に思い入れがあることを感じされるものとなっています。
歌聖と呼ばれた柿本人麻呂ですが、時が経つにつれ霊験のある存在になったことには、本人も驚いていることでしょう。

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