家康のライバル「豊臣秀吉」

歴史

豊臣秀吉は、織田信長に仕えた有名な家臣の一人です。

外見の特徴から「サル」とあだ名をつけられた人物ですが、どのようにして天下人にまで上り詰めたのでしょうか?

そして豊臣秀吉のエピソードからは、現代人でも学ぶところがたくさんあります。

豊臣秀吉の生涯や、徳川家康との関係性についてご紹介します。

豊臣秀吉の生涯

豊臣秀吉は、1537年尾張国愛知郡中村郷の農民の子として生まれました。

幼名は「日吉丸」で、父親は織田信秀の足軽でしたが、7歳の時に亡くなります。

15歳になると、遠江国へ武家奉公をするため家を出ることになり、そこで木下藤吉郎と名乗ったそうです。

その後1554年には、豊臣秀吉は尾張国で織田信長の雑用係である小者として仕えます。

最初は小者でしたが、普請奉行などでの活躍で周囲を驚かせました。

1572年に柴田勝家と丹羽長秀を敵に回したくないという尊敬の思いから、羽柴秀吉と名を改めます。

この頃になると、織田信長に重用されるくらいになっており、武将として戦を任されるまで信頼され、大出世を果たしました。

ところが、1582年に本能寺の変が起こると、状況が一変します。

戦中だった毛利氏と急いで和睦を取りまとめ、明智光秀を討つと、織田信長の後継者争いが始まります。

織田信長の家臣である柴田勝家、同盟を結んでいた徳川家康との後継者争いを制し、自身の勢力拡大を図りました。

天下統一に向けて豊臣秀吉は、2つの役職を手に入れます。

それは、「関白」と「太政大臣」です。

関白は成人した天皇の補佐職、太政大臣は天皇に仕える貴族社会の政治の最高職にあたります。

これらの役職は、基本的に貴族しかなることができず、それ以外の身分の人が就くことはありません。

その役職に豊臣秀吉が任命されたことで、身分社会のトップに到達したのです。

太政大臣に任命された際に「豊臣姓」を賜ったため、ここから「豊臣秀吉」と名乗るようになりました。

そして1590年に豊臣秀吉に臣従しなかった小田原の北条氏を破り、念願の天下統一を果たしました。

1591年には朝鮮出兵を行いますが、豊臣秀吉は以前と異なり、人の話を聞かない、暴挙が目立つようになったそうです。

絶対的な権力を持った豊臣秀吉でしたが、晩年はその反対で狂ったような行動が増え、1598年に62歳の生涯を終えました。

豊臣秀吉のエピソード

豊臣秀吉は徳川家康とライバル関係にあることが話題にされますが、それが分かるエピソードに小牧長久手の戦いがあります。

小牧長久手の戦いは、織田信長亡き後、豊臣秀吉と徳川家康が戦った唯一の戦になります。

きっかけは、織田信長の死後、後継者選びのために開催された清州会議にあります。

清州会議で後継者として指名されたのは、織田信長の長男の息子である、当時三歳の三法師でした。

そして三法師を指名したのは、豊臣秀吉だったのです。

この判断に対し、織田信長の次男である織田信雄は、長男の息子が選ばれることに納得できませんでした。

そこで織田信雄は、自分と同じく豊臣秀吉をよく思っていない徳川家康と同盟を結び、反豊臣秀吉勢力を集めて包囲網を作ったのです。

豊臣秀吉も対抗する方法として、家臣の寝返り工作を行いましたが、それがきっかけとなり織田信雄は宣戦布告を行い、大きな戦へと発展します。

小牧長久手の戦いは、戦の結果だけを見ると徳川家康が勝利したことになります。

しかし、戦略的な視点から見ると、この勝負に勝ったのは豊臣秀吉です。

なぜなら、戦のきっかけとなった織田信雄は、織田信長の後継者にすると豊臣秀吉から話を持ちかけられた結果、手のひらをかえ単独で和睦を結んでしまったからです。

このような経緯があることから、徳川家康は豊臣秀吉に対して完全な勝利を得ることができませんでした。

さらに戦で勝利したにもかかわらず、豊臣秀吉に仕えなければならない状況になったため、徳川家康は悔しい思いをしていたことでしょう。

話が変わりますが、豊臣秀吉はアイディアマンとしての一面も持っています。

織田信長の草履を懐で温める心遣いで気に入られた豊臣秀吉ですが、数多くの努力やアイディアで出世の道を歩んでいきました。

その一例に、清州城の塀の修理があります。

清州城の修理が進まない状況に対し、豊臣秀吉は職人たちを競わせて修理させてはどうかと提案します。

そこで、一番先に堀の修理が終わった職人には給料をプラスすると宣言したところ、あっという間に修理が終わったのです。

力技で人を制するのでなく、人心掌握で出世できた豊臣秀吉は、徳川家康と歩んできた道が違います。

よく豊臣秀吉が「人たらし」と表現される理由は、知略や人望に長けていたところにあります。

人との関わりを重視した選択をしてきた豊臣秀吉には、実際に多くのチャンスが舞い込んできました。

お互いに相いれない部分があったからこそ、今でもライバル関係にあると語り継がれているのです。

まとめ

豊臣秀吉は農民の子として生まれましたが、織田信長に重用され、瞬く間に出世します。

織田信長の死後に天下統一を果たしますが、晩年は人の話を聞かず、暴挙に出ることもありました。

徳川家康とのライバル関係は、織田信長の後継者争いから始まり、勝敗がついてもお互いに遺恨を晴らせませんでした。

人との関わりを重視した豊臣秀吉がチャンスを掴めたのは、必然の結果だったのです。

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