七戸城跡の歴史と特徴

歴史

弘前城がある青森県には、かつて他にも多くの城がありました。
その1つが、青森県上北郡七戸町に存在した七戸城です。
廃城となって現在は七戸城跡となっていますが、現存していた時はどのような城だったのでしょうか?
七戸城の歴史と、特徴について解説します。

七戸城の歴史

七戸城は、築城年が明らかではありません。
南北朝時代、根城を築城した南部師行の弟である南部政長によって築城されたと伝えられているのですが、考古学的調査によるとさらに前、その叔父である南部政光によって築城されたと考えられています。

1591年に南部氏一族の有力者である九戸政実が南部家当主の南部信直、並びに奥州仕置を行う豊臣政権に対して反乱を起こした九戸政実の乱において、当時七戸城の城主だった七戸家国は政実に与して九戸城に籠城し、滅亡してしまいました。

九戸政実の乱は、1582年に南部晴政が没したことに端を発します。
その際に南部家内で後継者問題が起こり、元々南部晴政や一族内の有力勢力である九戸氏の連衝と田子信直を盟主とした北信愛、南長義の連合の南部一族間での対立があったのです。

三戸南部家が盟主であり、その党首を継いだ南部晴継が1582年に13歳で急死したことで、九戸家と田子家の南部宗家後継者争いがいよいよ本格化します。
そして、田子信直が九戸実親を退け、半ば強引に三戸南部家当主となり、南部氏惣領になりました。

そのことで不満を持ったのが、実親の兄である九戸政実です。
南部信直との関係は亀裂状態となり、三戸南部氏を中心とした八戸氏、九戸氏、一戸氏、七戸氏、櫛引氏ら南部一族は郡中という同族連合で南部氏となっていた状況だったのですが、1590年に豊臣秀吉朱印状を受け取って信直が南部家宗家としての地位を公認されて豊臣政権での近世大名に組み込まれたことで、不満が爆発します。

それ以外の諸勢力は、どうあっても独立性が認められず家中か家臣になるしかないのです。
そして、九戸川は信直が従軍している間に三戸南部側の南盛義を攻撃し、信直が戻った後も正月参賀を拒絶するなど反発して挙兵し、最後には九戸城に籠城することとなりました。

そして、浅野長政が開城すれば除名すると約束したことで降伏したものの、城内にいたものは全員二の丸に押し込められて惨殺され、火をかけられてしまいます。
そして、主だった首謀者は栗原郡三迫で処刑されてしまいます。

そしてその翌年である1592年の「諸城破却書上」の記録によると、城は破却されたものの津軽に対しての配慮から関所地である七戸城は浅水城主の南部信義の三男である直勝に与えらえたこととなっていて、後に七戸氏の姓を継がせて家老職を世襲することとなりました。

三代目の重信は南部氏27代で盛岡藩初代藩主である南部利直の五男であり、1664年に本家29代、盛岡藩第3代藩主を継承します。
七戸城は藩の直轄地となって城内には代官所が設置され、陪臣も南部家直臣へと昇格して七戸御給人と呼ばれるようになりました。

重信の六男の政信は、兄の行信が家督を継いで盛岡藩第4代藩主となって2年後の1694年に新田5000石を分け与えらえ、幕府旗本寄合席として別家を立てます。
そこから、100年余りは記録がありません。

1804年に、幕命によって郷村仮名付帳を作成することとなった際、野辺地・七戸代官所については城郭に次ぐ要害屋敷と記載され、幕府もこれを承認します。
1819年には、七戸城5代目藩主だった南部主税信鄰が盛岡藩第11代藩主の南部利敬から6000国を加増されて1万1千石の大名に列せられています。

1858年、嫡子の信誉が北方警備の功績を評価され、城主各大名に昇格しましたが、築城には至りませんでした。
信誉の養嗣子となった7代南部信民は戊辰戦争に際して奥羽越列藩同盟に参加したのですが、敗戦となって家督を信方に譲って強制的に隠居するよう命じられてしまいます。

ただし、この時信方は若年だったため、実際の藩政はそのまま信民が取り仕切っていました。
また、牧畜や養蚕などの産業も奨励して、教育普及に尽くしていました。

明治になり、1869年には七戸藩が創設され、南部信民は七戸知藩事に任じられて藩庁が七戸城に置かれることとなりました。
しかし、1873年の廃城令によって廃城処分となっています。

七戸城の特徴

七戸城は、1941年に国の史跡に指定されています。
二の丸部分は柏葉城という別名から名前を取られた柏葉公園となっていて、土塁や水濠、曲輪、空堀などは当時のまま現存しています。

また、本丸城門はここにはないものの、町内にある青岩寺に移築されています。
本丸跡には、七戸神明宮が建てられています。
東門も復興され、当時の姿を残しています。

まとめ

七戸城は、盛岡藩藩主の南部氏と深い関りを持っていた城で、城主は藩主の弟が務めることが多かったのです。
しかし、その前には九戸氏との争いなど擬制があったことも忘れるべきではないでしょう。
歴史上の記録に登場することは少ないものの、重要な役割を果たした城でもあるのです。
青森県に城跡は数多くあるのですが、その中でも特に知っておきたい歴史がある城でしょう。

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