織田×徳川同盟のキーマン「水野信元」

歴史

徳川家康と言えば、もっとも有名な戦国武将の1人です。
その実家として松平家が知られていますが。母方の実家の水野家も忘れてはいけません。
水野家からも多くの要人が輩出されていますが、その中でも有名なのが水野信元です。
織田と徳川の同名のキーマンとも言われていますが、果たしてどのような人物だったのでしょうか?

水野信元の生涯

水野信元は、水野忠政の次男として生を受けました。
生年は定かではないものの、弟の信近が1525年生まれなのでその2~3年前に生まれたのではないかと言われています。

1543年に父の忠政が亡くなったことで、信元が水野宗家の家督を継いで尾張国知多郡東部、並びに三河国碧海部西部を領することとなりました。
1552年に善導寺へと寺領寄進をしたのが、信頼できる初見の記録です。

異母妹の於大の方は、1540年頃に松平広忠に嫁いで1543年に男児を出産しました。
この時の男児が竹千代、後の徳川家康です。
つまり、水野信元は徳川家康の伯父にあたるのです。

信元は織田信秀の三河侵攻に協力しながら、知多半島の征服にも乗り出していました。
そこで、於大の方を阿久居の久松俊勝に嫁がせます。
その後、知多半島各地を攻め、あるいは婚姻を結んで懐柔し、信元は知多半島の覇者となりました。

一方、信元の協力を得た織田信秀は、三河侵攻を進めていきます。
織田信長の初陣は1547年と言われていますが、この時の戦が行われた場所は水野氏の領土だったため、水野氏への援軍だったともいわれています。

しかし、1549年に安祥城を今川氏に奪還され、織田氏にとって不利な情勢となっていきます。
そして今川軍が刈谷城を一時占拠した頃に織田信長と今川義元の間で和睦が成立し、水野氏は今川氏の傘下に入ることになった、と見られています。

そして、1560年の桶狭間の戦いを迎えます。
ここで水野信元がどこにいたかはわかっていないのですが、織田軍の一番首の手柄は水野清久が得ています。

松平元康は桶狭間の戦いの後で今川家から独立し、家康と名乗ります。
1562年には信長と家康との間で清洲同盟が結ばれたのですが、その際の仲介役となったのが水野信元です。

その後も、家康が三河を平定した際は相談に乗るなど、信元は家康に対して強い影響力を持っていました。
三河一向一揆に家康が苦戦した際も、援軍に行っています。

1567年に、信元は信近の息子で自身の養子とした水野信政に家督を譲りました。
その翌年には信長の上洛に従軍し、信長とは別に二千疋を朝廷に献金しています。
その後も、姉川の戦いでは佐和山城を攻落するなど、第一線で活躍しています。

しかし、1576年に武田勝頼の武将の秋山信友との内通や兵糧の輸送などを佐久間信盛に疑われ、それを信じた信長の命を受けた家康によって殺害されてしまいます。
また、同時に信政も斬られ、水野家は滅亡を迎えます。

水野信元のエピソード

水野信元には、様々な逸話が残されています。
戦場で活躍し、内政にも力を発揮した人物ですが、他にも多くのことがあったのです。
特徴的なエピソードについて、解説します。

まず、水野信元は織田信秀の元妾を自分の側室にしたと言われています。
名前は明らかになっていないものの、尾張一の美女と呼ばれていたようです。
一説には、熱田の商家である中根氏の娘ともいわれています。

また、桶狭間の戦いでは甥の家康に進言をしていたといわれています。
まだ松平元康と名乗っていた頃でしたが、織田信長の急襲によって今川義元が討たれたとき、今川方として参戦していた元康の元に信元が向かい、すでに今川が打たれたことを伝えたことで、織田軍が来る前に撤退できたのです。

また、信元は連歌に造詣が深く、連歌師の里村紹巴とも交流がありました。
水野家は家中の者も含めて数寄者が多く、室町時代後期から戦国時代前期にかけては万里集九や宗長、飛鳥井雅康などが来訪したという記録も残っています。

連歌と言えば、主君の織田信秀は今川氏豊に接近する際は連歌好きであった氏豊に合わせ、連歌が好きなふりをしていました。
そして親しくなり、那古野城に部屋が用意されるほどとなったところで、那古野城を奪い取ったのです。

武田信玄が三河に侵攻した、三方ヶ原の戦いでもエピソードがあります。
この戦いは、徳川家康が武田信玄と戦って大敗したということでも有名ですが、水野信元にとっては疑念が残る戦いとなったのです。

実は、信元は佐久間信盛、平出汎秀とともに援軍として出陣したのですが、ほとんど戦うことなく敗戦となり撤退したため、ほぼ無傷だったのです。
偵察部隊だったという見方もありますが、これが後に討たれる原因の1つとなった可能性は高いでしょう。

まとめ

水野信元は、徳川家康の叔父であり相談にもよく乗っていた立場であったため、本来なら江戸幕府で重職についていてもおかしくはありませんでした。
しかし、実際にはその家康によって、切り殺されてしまうこととなったのです。
ただ、その兄弟の水野忠守の子孫は徳川幕府において重役を勤め、後の天保の改革を行った水野忠邦へとつながっています。

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