弓の名手だった「藤原道綱」

歴史


藤原寧子の『蜻蛉日記』には、自身の子どもである藤原道綱とのエピソードも多く記されています。
藤原兼家の子どもが複数人いる中、母からは出世を期待されたでしょう。
ですが、藤原道綱は藤原兼家のように野心に溢れた人物ではありませんでした。
ここでは、平安時代を生きた藤原道綱の生涯とエピソードをご紹介します。

藤原道綱の生涯

藤原道綱は、955年に藤原兼家の次男として生まれます。
母は藤原寧子であり、『蜻蛉日記』の作者です。
970年、従五位下に叙爵されたのち、右馬助や左衛門佐、左近衛少将と武官を歴任しました。

しかし、藤原道綱の昇進は、そこまで早いものではありませんでした。
なぜなら、正室の子どもである藤原道隆や藤原道兼、藤原道長と比べると、昇進のスピードが遅かったからです。
同じ父の子どもであっても、違いを見せつけられることになります。

そんな藤原道綱ですが、花山天皇が退位することとなった寛和の変では、藤原兼家の摂政就任に貢献します。
藤原兼家が権力を握ることに貢献したのですから、藤原道綱も昇進しました。
正五位下から従三位まで昇進することとなり、上流貴族である公卿の一員となったのです。

そして、藤原道長の執政時には、大納言にまで昇進します。
藤原兼家の子どもたちで目立っているのは藤原道隆や藤原道長ですが、藤原道綱もまたチャンスを掴めた人物だったのです。
ですが、正室の子どもたちのように歴史に影響するような大きな活躍は、残念ながらあまりありませんでした。

そんな藤原道綱は、1020年に病気が重体となったため薨去します。
藤原道綱は歌人として『後拾遺和歌集』などに作品が選ばれており、『和泉式部集』では歌の贈答をした和泉式部から好感を持たれていたような記載があります。

藤原道綱のエピソード

『蜻蛉日記』の中には、藤原道綱が弓の名手だったエピソードが記されています。
藤原道綱が少年だった頃に行われた宮中の弓試合で、負けそうであった右方を引き分けに持ち込んだのです。
試合の状況が大きく変わるくらいですから、優れた腕前を持っていたことは間違いないでしょう。

ですが、藤原道綱の性格について、藤原寧子は「大人しく、おっとりした性格」だと記しています。
弓のエピソードからすると、競争心が強そうなイメージがありますが、意外とそうでなかったのです。
穏やかそうな青年で弓の名手と聞くと、好印象が持てますが、仕事上の評価は違っていました。

藤原実資は、藤原道綱のことを「一文不通の人」と評価していたのです。
分かりやすく言うと、「漢文が読めない人」、「何も知らない人」になり、漢文が読めないということは仕事ができないことを意味しました。

藤原実資と藤原道綱は、仕事上においてライバル関係にあったため、このような評価がなされたと考えることもできます。
とはいえ、仕事の立場は藤原実資より藤原道綱の方が上でした。
ライバル心があったとしても上司に対して仕事ができない評価をするのは、余程のことだったのでしょう。

実際、藤原実資は有能な官吏で、藤原道長からも信頼され、良識人だったことが分かっています。
そのため、悪い評判を流すために、あえて悪い評価をしたわけではなさそうです。

藤原道綱の性格が関係していると断言できませんが、宮中での仕事は一筋縄ではいきません。
昇進を狙ったり、そのために相手を蹴落とそうとしたりする思惑がある中では、穏やかな性格だけだとやっていけないのでしょう。
様々な史料の中でも記載が多い人物は、歴史上でも重大なことを成し遂げたり、役職に限らず政治上重要な役割についていたりしたことがほとんどです。

前述のことから、仕事において藤原道綱は有能だったと言い難い人物だったのでないでしょうか。

ところで、そんな藤原道綱が大納言にまで昇進できたのはどうしてでしょうか。
それは、藤原道長と親しくしていたことが関係しています。
なぜなら、藤原道綱の妻は源雅信の娘であり、藤原道長の正室であった源倫子と姉妹だったからです。

姉妹の夫同士ということで接する機会も多かったはずですから、それが昇進のチャンスになったのです。

親しい関係である一方、藤原道長との不仲が噂されたこともありました。
その噂の背景には、嫡男の藤原兼経が藤原隆家の娘婿だったことが関係しています。
藤原隆家は、藤原道隆の息子でしたから、接点を持つことで藤原道隆の派閥だと捉えられてしまったようです。

しかしながら、本当のところは違っていたのでないでしょうか。
実は藤原道綱が薨去する前、その前年に出家していた藤原道長が見舞いに訪ねていたそうです。
本当に不仲だったなら、見舞いに来なかったでしょう。

藤原道綱は、良くも悪くも普通の人だったのです。
周囲に政治的、文学的な才能に恵まれた人が多かったため、注目される機会がなかったと考えると、様々な評価に納得できます。
藤原兼家が立派であっても、やはり才能や実力がなければ評価はついてきません。

まとめ

今回は、藤原道綱の生涯とエピソードをご紹介しました。
藤原寧子と藤原兼家の子どもとして生まれ、弓の名手など『蜻蛉日記』の様々な場面で人となりを知ることができます。
しかし、仕事面での評価は芳しくなく、昇進できたのは実力というより、藤原兼家や藤原道長の影響があったためでした。
有能な人物が多く歴史上で登場する中、藤原道綱は良くも悪くも普通の人だったのです。

タイトルとURLをコピーしました