秋田城の歴史と特徴

歴史

秋田城は、秋田県秋田市にかつてあった古代城柵です。
平安以前に存在していた城で、国の史跡にも指定され続日本100名城では107番に選定されているのですが、秋田城は今までどのような歴史をたどってきたのでしょうか?
秋田城に関する歴史と、その特徴について解説します。

秋田城の歴史

秋田城は、かつての出羽国秋田にありました。
「あきたじょう」と呼ばれるのが一般的ですが、本来の正しい読み方は「あきたのき」だとされています。

史料上での初出は「続日本紀」の中で、733年に出羽柵を当時の秋田村高清水岡に遷地した、と書かれています。
そのため築城年は733年、築城主は明らかではなく律令政権とされています。

7世紀から9世紀にかけての当時の朝廷は、東北地方の蝦夷を軍事的支配で服属させており、移民を扶植することで支配域の拡大を積極的に図っていました。
日本海側の支配域については、708年に越後国出羽郡が置かれ、その中から出羽国が誕生しています。

朝廷が北方まで支配域を広げたことで築かれたと考えられますが、大規模な集落跡などが当時の城周辺では確認できず、城柵が進出した際に形成された集落跡が近くにあったくらいだったので、当時は人口も希薄であり、移転したばかりの頃は朝廷の支配域の北端を担っていて設置に伴い城柵近辺に移民が混在する集落が形成されていたと思われます。

780年には鎮狄将軍の安倍家麻呂が派遣され、朝廷に具申したことで秋田城は使用を中止することが検討されていたものの、朝廷は放棄することを認めず鎮守とするために兵を送り、秋田城の防護のため専任のものが置かれるようになったことから、国司次官が秋田城介として常に常置されるようになりました。

8世紀頃は、沿海州付近の渤海国から出羽国に何度も使節が訪れていました。
そもそも庄内地方から100キロメートルも北進して人口が希薄な秋田へと突出したのかという疑問があったのですが、このことから秋田城を渤海国の使節や北方民族との外交を目的とした施設だったのではないかという説が出されています。

804年には、城が使われなくなり代わりに秋田郡が制定されました。
それまで城が担っていた機能は、河辺府が引き継いでいます。
しかし、この頃に大改修されているため、陸奥方面で朝廷が軍事的勝利を挙げたことから秋田城が孤立状態から解消されて支配体制の再編の一環として行われたと考えられています。

830年の出羽大地震では秋田城も損傷する被害が起こり、878年に起こった大規模な俘囚による反乱である元慶の乱では、秋田城が俘囚に一時占拠されて城が焼かれてしまいます。
また、国司が収奪を行っていたのが苛烈になったことから、国内の公民の3分の1は奥地へと逃亡していたという記録があります。
元慶の乱は、出羽権守の右中弁藤原保則が上野国や下野国の兵を率いて鎮圧しました。

その後、939年に起こった天慶の乱でも攻撃されていて、この頃に秋田城はその機能や基本的な構造などが失われたと思われます。
城内で発見された主要機構には11世紀以降のものがないため、その頃にはすでに衰退していたのでしょう。

それ以降でも、秋田城という名前は史料上でまだ継続して確認されています。
同名の別の城があったと思われる遺構が確認されていないため、古代からある城周辺のことだと思われます。

秋田城の特徴

秋田城があったのは雄物川河口付近、秋田平野の西部で、標高40メートルほどの丘陵地の上に造営されました。
城柵は外郭を塀などで囲み、内郭は政庁を囲むようになっていた二重構造でした。

外郭には、門が司法に設置されていて、政庁は正殿を中心として脇殿があり、広場が南側にありました。
これは、都城にみられる様式と共通しています。

外郭は、各方向におおよそ550メートル広がり、総面積は約30ヘクタールです。
この位置は変化することはほぼなかったものの、塀には変遷が見られました。
9世紀初頭には、築地塀から材木塀に変わっており、この頃に城の役割が大きく変わったと考えられています。

政庁跡は、上位機の中心から見て南西側にあります。
規模は東から西にかけてのほうがやや長く、およそ94メートルありました。
南から北には、77メートルほど広がっています。
秋田城は、全国的によく見られた規模の政庁でした。

現在は城跡となっているのですが、1989年から1990年にかけて行われた調査で外郭東門跡が発見されて、築地塀と共に復元工事が行われて1998年に完成しています。
周辺の史跡公園も、同年から高清水公園となっています。

まとめ

秋田城は、かつて存在した貴重な城跡、渤海国の使節などを迎え入れるなど重要な役割を果たしていました。
戦国時代から江戸時代にかけて築かれた城とは構造も大きく異なり、その時代で重視されていたことが異なるというのが伝わってきます。
現在は現存している建造物がないものの、一部の建造物は復元されているため、当時の様子を窺い知ることができるでしょう。
当時の様子を知りたいという方は、是非一度見てみましょう。

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