石田三成を支えた「嶋左近」(島清興)

歴史


豊臣家の分断を招いてしまった石田三成の家臣に、嶋左近がいます。
嶋左近は、石田三成から破格の俸禄をもらっている家臣であり、一目置かれていた存在になります。
また、始めから石田三成に仕えていたわけではありませんでした。
今回は、嶋左近の生涯とエピソードをご紹介します。

嶋左近の生涯

嶋左近は、1540年に生まれますが、出身地は対馬国、近江国と様々な説があります。
その中でも、大和国出身説が妥当とされており、1550年に大和国の大名である筒井順昭が亡くなった際には、すでに筒井家の重臣になっていたそうです。

その後仕えたのがわずか2歳の筒井順慶だったため、嶋左近は幼い彼をサポートし、家が盛んになるようにしていきました。
また、同じく筒井家の家臣であった松倉重信の通称が「右近」だったことから、2人合わせて「右近左近」と呼ばれたそうです。

しかし、筒井順慶が亡くなった後、甥の筒井定次に仕えますが、嶋左近は彼を見限り、筒井家を辞してしまいます。
それからの動きは『武家事記』(山鹿素行)によると、豊臣秀長に仕えた後、豊臣秀保に仕えたそうです。
豊臣家に仕えるようになると、石田三成が嶋左近ともつながりが出てきます。

石田三成から仕官の要請があった当初、嶋左近は断ったそうです。
しかしどうしても嶋左近を仕えさせたかった石田三成は説得し、ようやくそれに応じてもらえることとなりました。
嶋左近に仕官してもらうため、石田三成は自分の禄高のうち半分を与えるという、破格の待遇を申し出ていたので、相当の覚悟だったことが分かります。

石田三成に仕えてからは、小田原征伐で佐竹氏との交渉で重要な役割を果たし、さらに朝鮮出兵にも従軍しました。
この時代の嶋左近の動向は不明なことが多かったのですが、近年発見された史料により、詳細が分かってきています。

1600年の関ケ原の戦いの前日には、杭瀬川の戦いを起こし、見事勝利します。
この戦いは、上杉景勝、徳川家康の美濃国赤坂到着の報に動揺する兵士たちを鼓舞するため、東軍の中村一栄と有馬豊氏に500の兵を率いて戦いを挑んだのです。
関ケ原の本戦においても、自ら軍の先頭に立ち、西軍の勝利に貢献していたそうです。

しかしながら、嶋左近の最期に関しては様々な説があり、どの説が事実なのかまだ分かっていません。
『常山紀談』によると、徳川方から「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と恐れていたことが記されていたため、東軍にとって厄介な敵だったことに違いありません。

嶋左近のエピソード

嶋左近は、石田三成の右腕として、彼の欠点を補う形でサポートしました。
しかしながら、時には石田三成に失望したこともあります。
豊臣秀吉の死後、徳川家康を暗殺することを度々持ち掛けていたのですが、それらを石田三成は却下していたのです。

なぜなら、豊臣家のことを考え行動してくれている徳川家康に対し、暗殺という手段で討ち取ることを良しとしなかったからです。
とはいえ、嶋左近には、豊臣秀吉が亡くなったことで徳川家康が勢力を拡大していくのでないかという疑念がありました。
そうこうしているうちに前田利家も亡くなってしまい、嶋左近が恐れていた事態に陥ることになるのです。

その状況から、ついに石田三成も動くことになります。
1600年に嶋左近が徳川家康の暗殺計画を持ちかけた際、すでに石田三成も岡山城主の長束正家と計画していたそうで、行動に移すことになります。
本来なら、徳川家康をもてなし水口城内で斬るという計画でしたが、これは失敗に終わりました。

実は、徳川家康は自分の暗殺計画をすでに知っていたため、事前に回避していたのです。
このエピソードからは、石田三成の重要な判断が下せない一面と同時に、早くから動こうとしていた嶋左近の判断能力の高さや優秀さを知ることができます。
重要な場面での決断ができない、判断が遅いことに、嶋左近もガッカリしたことでしょう。

一方で、様々な場面において、石田三成は嶋左近にアドバイスを求めることが多く、とても信頼されていました。
このような普段の関係性から、関ケ原の戦いにおいて、勝てないと分かっていても自分を必要としてくれた石田三成のために戦ったのです。
短所だけでなく、良い面も含めて、石田三成に忠誠を誓っていたのです。

そんな嶋左近ですが、戦場においても敵を圧倒させるような活躍を見せています。
関ケ原の戦いでは、「かかれ。」という怒号のもと、槍を振り回し、馬で駆けて敵の大将に向かって突撃する戦い方をしました。
その怒号は、敵兵たちの耳に残るほどの凄まじいものだったそうです。

関ケ原の戦いで戦った黒田長政軍の武士たちは、戦が終わった後も、嶋左近の怒号の幻聴や悪夢にうなされるほどで、数年経っても忘れることができませんでした。
それくらい印象に残ったそうで、鉄砲で仕留められなかったどうなっていたかと、死後も恐れられているくらいです。
嶋左近が生きていたとしたら、西軍の状況はどうだったでしょう。

まとめ

今回は、嶋左近の生涯とエピソードをご紹介しました。
最初は任官の誘いを断っていましたが、最終的に破格の条件を出した石田三成に仕えます。
その後は石田三成の右腕として、主君の欠点を補いながら行動したため、もったいないほどの存在だったと言われるくらいでした。
嶋左近は戦場でも活躍しており、その戦いの様子は敵がいつまでも悪夢や幻聴でうなされるほど凄まじいものだったそうです。

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