織田家の礎を築いた「織田信秀」

歴史

戦国時代と聞いて、織田信長を思い浮かべる人は多いでしょう。
天下統一を目指した人物として知られていますが、そのような野心を持つことができた背景には、父である織田信秀の存在が欠かせません。
織田信秀とは、どのような人物なのでしょうか?
その生涯や、特徴的なエピソードについて解説します。

織田信秀の生涯

織田信秀は、1511年に尾張国において清州三奉行の一人であり、勝幡城城主の織田信定の長男として生まれました。
尾張の守護代織田氏の一族であり、主家の織田達勝を補佐していました。

信秀が家督を継いだのは1526~1527年の頃で、父の信定はまだ存命でした。
そして、1532年には主家と清州三奉行の一人である織田籐左衛門との争いが起こりましたが、講和隣収束しました。

そこから、和議を固めると同時に自身の威勢をアピールするため、京都から蹴鞠の宗家を招いて勝幡城において蹴鞠会を開催しました。
賓客に加えて数百人の見物客も訪れ、後日になってからは部隊を清州城に移して蹴鞠会が連日開催されるようになりました。

1538年になると、謀略によって今川氏豊の居城であった那古野城を奪い取り、居城を映して勢力を拡大していきます。
そして1539年には古渡城を築いて熱田を支配しています。

1548年には末森城を築いて再び居城を移します。
当時、戦国大名は居住を移すことはめったになく、生涯にわたって同じ居城に住むことを代々繰り返すことも多かったので、これは得意な戦略であると言えるでしょう。

勢力を増していった信秀は、上洛して調停に献金して従五位下に叙位されて備後守に任官れました。
また、鎌倉幕府の13代将軍足利義輝にも拝謁しています。

こうして、信秀は主家を超える規模へと織田家を拡大していき、弟の信康や信光を尾張の要所へと配置して、他の追随を許さない戦国武将となって戦い続けていきました。
1534年に生まれた織田信長も、元気に成長しています。

1544年には加納口の戦いがあり、斎藤道三の居城である稲葉山城を攻撃して城下まで侵攻したものの、反撃を受けてしまい大敗を喫しました。
そして、1548年には弟の子である信清と楽田城主の織田寛貞が謀反を起こしたのですが、鎮圧して従属させました。

1547年には、松平広忠の岡崎城を攻め、落としました。
広忠は降伏し、嫡男の竹千代が人質となりました。
この竹千代が、後に徳川家康となります。

松平広忠は、翌年に斎藤道三の働きかけによって今川氏・斎藤氏と組んで挙兵しています。
このことから、斎藤道三や今川義元は信秀に対抗しようという意識を持っていたことがわかります。

その後、第2次小豆坂の戦いで今川方の太原雪斎に敗北し、徐々に押され気味となってきました。
そして、和睦の条件として信長と濃姫との婚姻が決まりました。

ところが、1549年には今川義元が太原雪斎を将とした1万の軍勢を、織田方の西三河支配の牙城だった安祥城に送られました。
一度は城主である庶子の信広が奮闘して退けたのですが、再び挙兵されて陥落してしまいます。

そのせいで織田方の勢力は総崩れとなり、信広は今川氏に捕縛されてしまいます。
そこで、人質だった竹千代と人質交換を行って西三河の勢力は失われました。
それ以降は、病に臥せってしまい1552年に享年42歳で死去しました。

織田信秀のエピソード

織田信秀は、尾張の虎とも呼ばれていた猛将でした。
しかし、単に勇猛果敢であっただけではなく、計略にも優れていたのです。
それは、那古野城を今川氏豊から奪取した際のエピソードによく表れています。

その時の那古野城主だった今川氏豊は、連歌を趣味としていました。
織田信秀はそれに目を付け、自分も連歌が趣味だと言って那古野城で開催される連歌会へと通い、信用を得ていきます。

やがて、今川氏豊は場内に信秀専用の客間を用意するほど信用するようになりました。
そして、信秀はその部屋の中に小さな窓を造り、本丸に矢を射ることができるようにします。

今川の家臣からは怪しまれたものの、氏豊は風を取り込むための窓だと思って全く疑いません。
部屋を用意するほど信用していたので、今更信秀を疑おうという気持ちはなかったのです。

そして、信秀はある日仮病を使い城内で倒れ、遺言をしたいから自分の家臣を読んでほしいと氏豊に懇願します。
それも疑わず、家臣が入城することを認めました。

しかし、実はその家臣以外にも、多くの兵を外に忍ばせていました。
そして、信秀は中から火を放ち、それを合図にして外からは兵が乱入してきます。
さらに自分がいた客間から矢を放って、内外から同時に攻めることで那古野城をあっという間に奪取しました。

また、信秀が亡くなった際は葬儀に訪れた信長が葬式に遅刻した上派手な格好をしており、更には焼香の際に位牌へと抹香を投げつけたことで、周囲から大うつけという評価を確かなものとしました。
この葬儀が、後の織田信長が形成される一因となったと言えるでしょう。

まとめ

織田信秀は、織田信長の父ですが信長の功績が大きすぎるため、あまり目立たないように思われることもあります。
しかし、実際には斎藤氏や今川氏などの大勢力と互角に渡り合っており、様々な城を奪取している優れた人物なのです。
その行いは、後の織田信長の天下統一への動きに大きな影響を与えているでしょう。
実は猛将であり、知略にも優れていた織田信秀に、注目してみましょう。

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