関ヶ原の戦いで西軍総大将を務めた「毛利輝元」

歴史

毛利輝元は、3本の矢で有名な毛利元就の孫にあたります。
名門毛利家の嫡子として生まれ、関ケ原の戦いでは総大将を務めていたもののあまり目立たないといわれている毛利輝元は、どのような人物だったのでしょうか?
毛利輝元の生涯に何があったのか、紹介していきます。

毛利輝元の生涯

毛利輝元は、1553年に毛利家の嫡子として生まれました。
1563年に父の毛利隆元が毒殺の疑いがある状態で急死したため、祖父の元就や叔父の後見を受けて家督を継いでいます。

元服の際は、足利義輝から輝の字をもらい、輝元と名前が変わります。
領国は祖父の輝元と一緒に統治していたのですが、1571年に元就が亡くなると親政に切り替えました。

当初は、織田信長とは軍事的な同盟関係を結んでいました。
中央政権との関係もよく、信長が将軍の足利義昭によって京都を追放された際は義昭の味方をしませんでした。

信長は、中央政権に近づいてきても毛利氏と直接争うことは避けていたのですが、領国へは圧を加えていました。
信長が領国を拡大したことで毛利氏と隣り合ってしまえば、もう争いは避けられません。

亡命してきた義昭を保護した輝元は、亡命政権を樹立します。
織田との同盟も破棄して、上杉、武田、石山本願寺などと同盟を組み、織田・豊臣政権との争いを繰り広げます。

副将軍に任じられた輝元は、織田氏との争いの中で領土を広げ、元就の時代よりもさらに広大な領地を治めるようになりました。
しかし、戦は徐々に劣勢となっていきました。

転機となったのが、本能寺の変です。
信長が死去したため、秀吉と和平を結んだものの以降も数年にわたって争います。
しかし、京芸和睦を結んで争いを終えることになりました。

豊臣政権下では、五大老という重職に就き、政権を支えます。
同時に領国経営にも注力し、広島城を築城して支配体制を構築していきました。
秀吉が死去した際は、五奉行と連携して家康に対抗します。

1603年に石田三成が挙兵したことで、輝元も西軍に参加します。
大阪城に入った輝元は、総大将に推挙されて指揮を執ることとなりました。
養子の秀元を対象とした毛利勢は、関ケ原だけではなく、四国や九州にも広がりました。

しかし、輝元には知らされないところで家臣の吉川広家が東軍に内通して、毛利家が参加しなければ所領を安堵するという約束を取り付けていました。
関ケ原の戦いでは、参戦を妨害されているうちに戦が終わってしまったのです。

敗戦後は大阪城を退去して所領安堵されたのですが、総大将だったことを知った家康によって改易の危機が訪れました。
広家らが尽力したことで改易とはならなかったものの、領地は大きく削られます。

輝元は出家して家督や嫡子に譲ったものの、実質は党首のままとなります。
内政に尽力し、さらに幕府との関係も重視していました。
1625年に、享年73で病没しました。

毛利輝元のエピソード

毛利輝元は、父が毒殺されたため、若干11歳の時に家督を継ぐこととなりました。
しかし、元々実権は祖父である毛利元就が握っていたため、しばらくの間は元就が党首に復帰しました。

輝元が元服したとき、元就は引退しようとしたのですが、輝元に泣きつかれてしまいまだ実権を握ったままとなりました。
高齢のため不安があり、吉川元春と小早川隆景という2人の息子も後見人になりました。

2人の叔父は、輝元の母からも頼まれたため、輝元を厳しくしつけていました。
元就が亡くなった時、輝元はまだ19歳でしたが、輝元が失敗すると陰で折檻していたと伝えられています。

関ケ原の戦いを基にした故事の中に、「宰相殿の空弁当」という逸話が伝わっています。
宰相殿というのは、毛利輝元のことです。
西軍総大将だった輝元は、家臣が東軍と内通して妨害していたせいで出陣できずにいました。

毛利家の前に陣取った家臣は、出陣を何度も急かされ、霧が濃い、時期が悪いなどの言い訳を重ねていたのですが、とうとう言い訳が思いつかなくなります。
困った家臣は、これから弁当を食うからと言い出します。
家臣の苦し紛れの言い訳から、「宰相殿の空弁当」と呼ばれるようになったのです。
しかし、裏切りどころか弁当に関しても、特に毛利輝元は指示していません。

出陣を妨害されたことで、西軍総大将でありながらも目立つことがなかった毛利輝元ですが、作戦の立案は積極的に行っていて、諸大名にも西軍に参加するよう檄文を送付しています。

まとめ

毛利輝元は、毛利元就の嫡孫であり11歳の頃に家督を継いだため、祖父と2人の叔父が後見となっていました。
織田信長とも争い、足利義昭が亡命してきた際は亡命政権を樹立し、関ケ原の戦いでは西軍の総大将を務めています。
しかし、家臣が東軍と内通していたことで出陣を妨げられ、結局参加しないまま終わってしまいました。
生き残ることができたとはいえ、総大将として目立つことがなかったのは不本意だったでしょう。

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