三戸城の歴史と特徴

歴史

青森県の城と言えば弘前城が有名ですが、昔は他にも多くの城がありました。
その多くは古くから国の史跡に指定されていたのですが、2022年になってから国の史跡として指定されたのが三戸城です。
三戸城は、どのような城なのでしょうか?
その歴史と、特徴について解説します。

三戸城の歴史

三戸城の築城年は定かではありませんが、伝承では1539年に領主であった南部氏24代の南部晴政の代に本三戸城とも呼ばれた聖寿寺館に家臣の赤沼備中が放火し、焼失したことでその地に三戸城を築いた、と言われています。
しかし、1558年から1570年の永禄年間に南部晴政が築いたという説もあります。

現在の三戸町の市街地のほぼ中央部分に位置して、馬淵川と熊原川の浸食で形成された河岸段丘上にある、連郭式の山城です。
両河川を天然の水堀にしていて、周囲から孤立した台地にあり低地との比高差は90メートル近くあります。

また、規模は東北から西南にかけて約1.5キロメートル広がっていて、北西から南東に向かっては約400メートルとなっています。
本丸、淡路丸を築くため、丘を削っていました。

それまでは本三戸城を居城としていた晴政は、築城を機に三戸城へと居城を移します。
この時居城を移した理由としては、三戸南部氏の勢力が拡大し続けていたことから、肥大化してきた組織を統制するための根城が必要となったという見方もあります。

そして、盛岡藩を立てた26代信直は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、その功をもって南部7郡の領有が認められて近世大名となりました。
そして、秀吉から所領安堵の五カ条からなる朱印状が交付されて領内にある家中の情感を破棄するよう命じられます。

この時、家臣の妻子は南部氏の居城下に集合するよう厳命されていました。
そのこともあって、南部氏はこの時に三戸城を居城にしていたとも考えられています。
そして翌年に、九戸政実の乱が起こり南部氏の反対勢力が一掃されます。

その争いが終わってから、奥州仕置軍を率いていた蒲生氏郷らによって三戸城は近世城館のシンボルであった石垣を持った城へと普請されます。
その際、本丸には三層三階の御三階櫓が挙げられたと言われています。

そして秀吉から和賀など3郡を加増されて10万石を領することとなり、信直はそれを機に居城を九戸城へと移します。
三戸城には弟の政信が置かれたのですが、南部氏の居城が九戸城になると三戸城には城代が置かれるようになりました。

その後、1684年から1688年にかけての貞享年簡に城代ではなく代官が置かれるようになったのですが、三戸城は破却されることなく長く残り続けました。
1634年に盛岡城が南部氏の居城と定められた際は、三戸城は御古城と呼ばれるようになります。

その際も石垣の補修が行われ、お掃除奉行なども設置されていて、藩主からも管理を疎かにしないようにという働きかけがなされています。
その後城が廃れ、三戸代官が支配するようになります。

1956年には県立公園に指定されていて、1989年になると山麓に綱御門が復元されました。
周辺は城山公園として整備されていて、現在ある天守風の建物は1967年に温故館として築かれた歴史資料館です。

そして、2022年には国の史跡として指定されました。
ただし、その際に天守風の建物については史実に基づかない建造物として、文化庁から将来的に撤去するよう求められています。

三戸城の特徴

三戸城の城内には御三階櫓を模した建物も建てられているものの、特に注目したいのは綱御門付近の石垣から本丸までつながっている通路や、搦手側の梶屋敷門付近にある石垣です。

南西の大手から登っていくと、石垣を用いた虎口の綱御門を通って武者溜まりを超え、鳩御門に入ります。
そこには、目時館主目時筑前邸や医者屋敷、赤石館主桜庭安房邸、剣吉城主北左衛門佐信愛邸、名久井城主東彦左衛門邸、石亀館主石亀七左衛門邸などがあります。

さらに進むとケヤキ御門があり、南部彦九郎正直邸や南部彦八郎利康底、石井伊賀邸、石井善太夫邸、鳥谷大炊邸があります。
そこからさらに進むと、石垣を用いた大御門があって本丸や谷丸、淡路丸などの主郭に至ります。

搦手側には、上段御馬屋、鶴池や亀池、奥瀬与七郎邸があり、からめ手口には石垣を用いている鍛治屋敷門跡があります。
こうしてみて回ることで、当時の様子を窺い知ることができるでしょう。

なお、搦手門は移築されていて、現在は法泉寺の門となっています。
表門も同様で、龍川寺の門となっています。
この2つに代官所門をくわえた3つが、三戸町指定の有形文化財となっています。

まとめ

三戸城は、青森県にあった城の中でも岩手、かつての盛岡藩に近い立地にある城です。
そのため、森岡藩主であった南部氏ともかかわりが深い城であり、築城したのは南部晴政と言われています。
その後も盛岡城が完成するまで、南部氏の居城としてあり続けた城です。
三戸城模擬天守は現在「三戸城温故館」として資料館になっているのですが、将来的に取り壊される可能性も高いので早めに見に行ったほうがいいでしょう。

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