徳川家康と生き別れた「於大の方」

歴史

戦国の世において、子どもが成長するまで一緒に過ごせた親はそう多くありません。

戦で親が亡くなったり、同盟上の関係から幼少期に離れ離れになったりした武将は多いです。

子どもに限らず、親の立場でも辛い思いをした人がいます。

今回は、そのような体験をした於大の方の生涯とエピソードについてご紹介します。

於大の方の生涯

於大の方は、1528年に尾張国の水野忠政と華陽院の間に生まれます。

生まれは尾張国ですが、水野忠政は三河国にも所領を持っており、そこを治めていた松平氏との友好関係を深めようと考えました。

そこで、1541年に於大の方を徳川家康の父である松平広忠に嫁がせることにしたのです。

つまり、政略的な意図があって、三河国に来たことになります。

そして、1543年に岡崎城で徳川家康を出産しました。

子どもが誕生し、穏やかに過ごせると思われましたが、急に子どもと引き離される事態に見舞われます。

それは、父水野忠政の死後、於大の方の兄が家督を継いだ時に起こりました。

なんと、1544年に今川氏と絶縁し、水野氏は織田氏に従うようになったのです。

於大の方の場合、実家での仕え先が変わるということは、嫁ぎ先の松平氏との関係が変わることを意味します。

当時の松平氏は今川氏に支配されていたこともあり、その関係を損なわないために、松平広忠から離縁されてしまいます。

非情にも徳川家康と生き別れになってしまった於大の方は、松平氏と対抗する兄の意向を受け、久松俊勝に嫁ぐことになります。

徳川家康とのやり取りは続けていたものの、幼少期を一緒に過ごしたいという思いは叶いませんでした。

ところが、1560年の桶狭間の戦い後、親子の状況が再び変わります。

徳川家康は織田氏と同盟を結んだことにより、母と暮らすことが叶ったのです。

また、於大の方の夫である久松俊勝と自身の3人の息子に対し松平姓を与えたため、家臣として働くことになりました。

ようやく親子で過ごすことができた一方で、於大の方もまた武将同士の争いに関わっていくことになります。

1584年の小牧・長久手の戦いの後に、羽柴秀吉の養子として息子の松平定勝の名が挙がったのです。

武将同士の話だったとしても、これには於大の方も黙ってはいません。

息子を養子に出すことを猛反対し、最終的に断念させたのです。

時代の流れに翻弄された於大の方は、1602年に山城伏見城にて、75歳の生涯を閉じました。

於大の方のエピソード

於大の方が最期に徳川家康と会えたのは、天下統一を果たした後になります。

関ケ原の戦い終了後は京都の伏見城に移り、そこで幕府を開くための準備を行っていました。

そして1602年に於大の方を京都に招き、対面することができたのです。

これまでも於大の方と会う機会はありましたが、天下統一を成し遂げた後に会うのは初めてでした。

於大の方も、息子の立派な姿に喜ばないわけがありません。

幼少期の人質としての役割から、武将として家臣と共に戦っていた状況を知っている於大の方からすると、胸が一杯になったことでしょう。

京都で対面した後、於大の方はある行動に出ます。

徳川家康の生母として、当時の天皇であった後陽成天皇に拝謁したのです。

征夷大将軍に任命されるためには、天皇との関係も重要になります。

徳川家康や他の家臣も動いていましたが、於大の方も息子のために動いたのです。

また、豊臣秀吉が祀られている豊国神社にも、於大の方は参拝しました。

豊国神社を参拝した理由は、豊臣秀吉、豊臣氏に対して敵意がないことを示すためです。

徳川家康は、小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と戦い、豊臣秀吉の死後に起こった政権の争いを経て天下人になりました。

つまり、豊臣氏に対して一番敵意があると考えられていたのです。

敵意を持ったまま天下人になった場合、残された豊臣氏がどう行動するのかは容易に想像できます。

実際、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼすまで、政治の権力が全て徳川家康に移ったと言い切ることができませんでした。

息子の敵をできるだけ少なくするためにも、敵意がないことを示す役割を率先して行ったのです。

息子がどれだけ成長し、手を離れた年齢になったとしても、母親のする行動に変わりありません。

しかし、その後於大の方は病床に伏せるようになってしまい、それから間もなく亡くなってしまいます。

この時於大の方は、徳川家康に看取られながら最期を迎えました。

息子と離れ離れになっていた時間の方が長かったですが、亡くなる前に一緒にいれたことは嬉しかったはずです。

徳川家康も実の母を看取れたことで、最後の親孝行ができたのでないでしょうか。

政治的な都合によって引き離されてしまった親子でしたが、徳川家康の成長と僅かな繋がりによって再会できました。

これは、徳川家康が天下人になったことで得られた時間だと考えてみてはどうでしょう。

まとめ

今回は、於大の方の生涯とエピソードについてご紹介しました。

政略結婚で松平広忠と結婚した於大の方は、徳川家康を産んだ後、実家の都合から離縁されてしまいます。

幼い徳川家康と離れ離れになってしまいましたが、情勢が変わると一緒に過ごすことが叶います。

家同士の政略に翻弄された於大の方ですが、最期に天下人になった息子に看取ってもらったことは人生において一番幸せな時間だったことでしょう。

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