兜に愛を掲げて戦場を駆けた戦国武将「直江兼続」

歴史

直江兼続は、上杉景勝の家臣として戦国時代に活躍した人物です。
額に愛の前立てをつけていたことが有名で、関ケ原の戦いでは西軍に与していましたが、戦後は幕藩体制の一員に加わっています。
今回は、幼いころから上杉家を支えてきた直江兼続について、紹介します。

直江兼続の生涯

直江兼続は、1560年に樋口兼豊の長男として生を受け、与六と名づけられました。
1564年に上田長尾家当主が死去して、後の上杉景勝である長尾顕景(当時9歳)が上杉謙信の養子となった際に、直江兼続は4歳にして近侍になりました。

1581年に、直江綱信が毛利秀広に殺害された際、綱信には子どもがいなかったため断絶となるところだったのですが、直江家の娘で綱信の妻と樋口兼続が婚姻を結んだことで直江家を継ぐこととなり、直江兼続となりました。

当時、上杉家は上杉謙信が突然亡くなったことで御館の乱という後継者争いがあったため、家中が混乱していました。
直江信綱が殺害されたのも、御館の乱の恩賞をめぐる争いによるものでした。

さらに、1582年には同盟相手の武田家が滅ぼされてしまい、いつ越後にも進行してくるかわからない状況でした。
しかし、本能寺の変が起こって織田信長が憤死したため、事態は好転して戦国武将がけん制しあう状況となり、上杉軍も落ち着くことができたのです。

明智光秀を豊臣秀吉が倒した後、柴田勝家をけん制するための要請に応じたことで、関係を持つようになりました。
賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破った豊臣秀吉は、さらに上杉家との関係を深めることとなり、上杉家も危機を脱することができたのです。

1584年から、直江兼続は上杉家の内政と外交を担当するようになり、上杉景勝とともに上杉家の責任者の立場になりました。
直江兼続が亡くなるまで、二頭体制は続けられました。

直江兼続は、1588年に上杉景勝とともに上洛し、豊臣秀吉から従五位下、豊臣姓、山城守を授けられています。
上杉家は、様々な面で活躍していたため、豊臣秀吉からの信頼が厚かったのです。

越後は度重なる争いによって疲弊していたため、新田開発を奨励して、特産品である青苧という繊維を増産します。
当時は貴重だったため、増産することで莫大な富を得ることができたのです。

また、直江兼続は伏見城の改築などを担う役職に任じられています。
豊臣秀吉から、天下において安心して政治を任せることができるのはわずか数人、直江兼続は任せることができる1人と高い評価を得ています。

豊臣秀吉が死去して、関ケ原の戦いが起こると上杉軍は西軍に与しました。
しかし、最上義光と伊達政宗の連合軍と戦っている中で、西軍が敗北したという知らせが届いたため、直江兼続が殿となり軍を退かせます。

上杉景勝は上洛して徳川家康に謝罪し、会津120万石から米沢30万石への減移封という処分をされます。
家臣も整理した方がいいといわれたのですが、直江兼続は誰も整理することはありませんでした。

米沢では、越後と同じく新田開発を推奨し、生産を大きく向上させます。
また、最上川上流には反乱防止のために大きな堤防を建造し、治水事業を始めとしたさまざまな環境整備に取り組んで、米沢藩の基礎を築き上げました。

1619年に直江兼続が死去すると、男子がいなかった直江家は断絶されることとなります。
一度養子縁組を解消してから養子をとることがなかったのは、上杉家の財政負担を減らすためだったといわれています。

直江兼続のエピソード

直江兼続の特徴といえば、愛一文字を前立てとしている兜です。
なぜ愛なのかというと、上杉家が毘沙門天を信仰していたように、直江兼続が愛染明王を信仰していたからだといわれています。

ただし、愛染明王以外にも愛宕権現への信仰を示したものだという意見もあります。
もしかしたら上杉景勝から渡されたものであるとも考えられるので、愛宕権現の可能性が高くなるでしょう。

直江兼続といえば、直江状でも有名です。
直江状は、徳川家康から上杉景勝に上洛するよう促した手紙に対して贈られた、拒否のための手紙です。

内容としては、上杉景勝に逆心があるといっている者こそ怪しい、悪口を信じるべきではない、武器集めは趣味、道や船で交通の便をよくするのは当たり前、景勝の噂だけで不安を抱かないでください、といったことが書かれています。
上杉征伐は、直江状がきっかけともいわれています。

関ケ原の戦いでは、十分に勝算がある作戦を用意していました。
しかし、西軍には戦う気がない舞台が多かったため作戦がきちんと機能せず、数カ月かかると思われた戦もわずか1日で決着が着いたのです。

まとめ

今回は、直江兼続の生涯とエピソードを紹介しました。
子どもの頃から上杉景勝に仕えていた直江兼続は、生涯を上杉家のために費やしました。
結果、直江家は男子がいないために断絶しています。
内政や外交、果ては軍事まで、多岐にわたって上杉家を支えた直江兼続は、まさに忠臣と呼ぶのにふさわしい人物です。
西軍の部隊にやる気があれば、未来は大きく変わっていたでしょう。

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