今川氏に忠義を尽くした「鵜殿長照」

歴史

鵜殿長照は、今川義元に仕えた家臣で、現在の愛知県蒲郡市にあたる上ノ郷城の城主でした。
父の代から仕えており、今川義元に重用されていたことで領地は栄えたものの、長照の代になってその栄華を失っていきます。
鵜殿長照の生涯と、特徴的なエピソードを紹介します。

鵜殿長照の生涯

鵜殿長照は、上ノ郷城の城主である鵜殿長持と、主君である今川義元の妹との間に生まれました。
父の代から、駿河国の戦国大名である今川氏に仕えていて、1557年に長持が死去したことで長照が党首となりました。

鵜殿氏の納める領地は、三河国の東西の境界に近い所でした。
今川家は西三河に進出することを目論んでいたため、戦略上非常に重要な場所です。
その場所を任されていた鵜殿氏は、今川家の家臣の中でも特に高い地位にいたのです。

今川義元は、1559年に尾張国の織田家から大高城を奪取し、西三河地域に進出する際の拠点にしようと考えます。
そこで、鵜殿長照をその城代に取り立てました。

しかし、その翌年の1560年に桶狭間の戦いが起こります。
織田信長と今川義元が対立した戦であり、大高城はその最前線となってしまいます。
そのため、織田軍に囲まれて兵糧が尽きかけることになりました。

この時、織田軍の包囲を潜り抜けて大高城へと食料を届けるという手柄を立てたのが、当時は今川家の人質であった松平元康、後の徳川家康でした。
それをきっかけに大高城をめぐる攻防は今川軍が有利となり、今川義元が率いていた本体も大高城へと進軍していきます。

しかし、途中の桶狭間山で義元は織田軍に討ち取られてしまいます。
その後、今川家は今川氏真が継いだものの、今川家からは家臣の離反が相次ぎます。
しかし、鵜殿長照は今川家から離れることなく、氏真に使えます。

多くの家臣を失った今川家からは、人質であった松平元康も離反します。
そして岡崎城に帰還し、三河国の統一支配に動き出しました。
そして、今川家を離れて元康につく家臣も続出しました。

長照は、それでも今川家に残り続けます。
その結果、1562年に家康が上ノ郷城を攻め、長照は討ち取られてしまいました。
また、長照の子の鵜殿氏長と氏次の兄弟は、捕らわれて松平家の人質となってしまいます。

この兄弟は人質となった後、今川家が人質にしていた元康の妻である瀬名姫とその子供の信康、亀姫と交換する形で今川に戻ることができました。
後に今川氏が滅亡した際は家康に降伏し、徳川の家臣として仕えます。

鵜殿長照のエピソード

鵜殿長照は、今川家の繁栄に陰りが見えても仕え続けていた忠義の人です。
そういった人物にはあまり逸話がないことも多いのですが、長照には様々な逸話が残されているため、紹介していきます。

鵜殿氏が最も栄えていたのは、長照の父である長持の頃でした。
長持は超応じに法華経を寄進して、縁が深い本興寺にも多額の寄付をするなど、仏教を厚く敬う信心深い人物でした。

また、長持は今川義元を妻として、今川勢力の中でも筆頭格となりました。
しかし、長持が亡くなって長照が家督を継いでからわずか3年で桶狭間の戦いが起こり、鵜殿氏の支援者であった今川義元が討ち取られてしまったことで、状況は一変します。

松平元康が今川家から独立すると、鵜殿一族からも元康に従うものが出始めてしまいます。
松平清善は長照の義理の弟だったのですが、元康に従って鵜殿氏へと攻め込んでくるようになりました。

鵜殿一族の中で出家した人物が長存寺に残した記録によると、鵜殿長照は父親が亡くなってから素行が悪くなったと書かれています。
そのため、一族は長照と距離を置くようになり、長照は孤立していったとされています。

徳川家康は今川氏と決別した後、長照の居城である上ノ郷城を攻撃します。
しかし、守りが固い城だったためかなり苦戦していたと言われています。
そこで、徳川家康は配下の忍者を使って攻め落としたという逸話が残されています。

その時に使われたのが服部半蔵で、場内に進入して火を放ち、混乱する城の中に攻め入って上ノ郷城を落としたと言われています。
そして、長照が討ち死にすると領民は家康の圧政を恐れて下之郷へと逃げ出してしまい、上之郷一帯は数年で荒廃してしまいます。

また、上ノ郷城が落城した際に長照は城から脱出していたという説もあります。
城を出て逃げ出したものの、現在の蒲郡市清田町の安楽寺という寺の横野坂で、討ち取られたとされています。

その坂は、現在でも鵜殿坂と呼ばれています。
そして、坂には長照の怨念がこもっているため、そこで転んで怪我をした場合は一生その怪我が治らないという伝説があります。

まとめ

鵜殿長照は今川家につかえる忠義の人でしたが、そのため今川家の衰退に合わせて自身も衰退していきます。
三河国統一の先鋒となる城の城主だったこともあり、徳川家康が三河国を統一しようとした際は城を攻められ、討ち取られることとなりました。
忠義の人ともいえますが、時節を見極めることができなかったともいえるでしょう。
ただ、その息子は家康に降伏し、家臣として無事生き延びることができたのは成功と言えるでしょう。

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