現存12城その③「丸岡城」

歴史

日本の城は、これまでの累計で言えば数万ありました。
しかし、現在まで残っている城はごくわずかで、現存する天守は12城しかありません。
福井県にある丸岡城も、その12の城の1つです。
丸岡城とは、どのような城なのでしょうか?
その歴史や、特徴的なエピソードを紹介します。

丸岡城とは?

丸岡城は、北陸地方で唯一天守が現存している城です。
別名を霞ヶ城といい、1576年に織田信長の家臣である柴田勝家の甥、勝豊によって築城されました。

天守は大入母屋の上に周り縁がある小さな望楼を載せている古式の外観で、現存最古の天守と呼ばれていたのですが、調査の結果建造されたのが江戸時代の1624年から1644年の寛永年間に建造されたもので、建築様式が現在残っている天守の中では最古ということがわかっています。

また、現在の天守は一度倒壊してから材料を70%以上再利用して組み直し、修復再建されたものです。
独立式望楼型2重3階で、天守台を被せるような腰屋根が掛けられているのが特徴です。

建築された当初は、屋根は柿葺きで木製漆塗りに金箔押しの鯱で、屋根瓦は後に笏谷石製の石瓦に変更されています。

1583年に羽柴秀吉によって柴田勝家が滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となります。
丹羽長秀が死去した後は、徳川家康の次男である秀康の家臣が城主となり、2万6千石を与えられています。

しかし、1612年に越前騒動が起こり家臣は失脚します。
そして、幕府から附家老として本多成重が4万3千石で福井藩に附せられ、新たな城主となります。

天守が建造されたのは1628年で、古式の形状を踏襲した衣装と、掘立柱を用いたことで現存最古の天守と言われ、その点については犬山城天守との論争がありました。
また、建造年がもっと古いというものや改修があったなど、いくつかの説があります。

その後は、1695年に有馬氏の居城となって6代が過ぎた頃、明治維新を迎え天守以外は解体・破棄されてしまいます。
天守は解体を免れ、城跡は公園となりました。

1934年には国宝保存法によって国宝に指定されたのですが、1948年に起こった福井地震で倒壊してしまいます。
1950年に文化財保護法が施行されたことで、店主は重要文化財に指定されます。

その後、倒壊した天守は1955年に倒壊材を用いて元通りに組み直されて修復されます。
1990年委霞ヶ城公園として日本さくら名所100選に選定され、2006年には日本100名城の36番に選定されます。

現行法では国宝ではないのですが、2013年には丸岡城を国宝にしようという事業が発足して国宝指定のための歴史資料を探しています。
2017年には、丸岡天守を国宝にする市民の会が一般社団法人として発足しました。

丸岡城のエピソード

丸岡城には、いくつかのエピソードがあります。
その内容がどのようなものか、紹介します。
丸岡城には別名がるのですが、その名前の由来は何なのでしょうか?

丸岡城は別名を霞ヶ城というのですが、これは天守横にある井戸に住む大蛇が城を守るために霧をかけるという伝説から来ています。
丸岡城が築城されてから一向宗の残党が城を襲うことがあったのですが、その際に霧をかけて助けてくれた、と言われているのです。

現在はその霞を見ることはできませんが、春になると丸岡城の周りに咲く桜の淡いピンクの花がまるで霧のように見えて、その中に丸岡城が浮かんでいるかのように見える幻想的な風景となっています。

丸岡城の建設においては、「人柱お静」という伝説もあります。
丸岡城は、建設する際に何度も天守台の石垣が崩れてしまい、工事がなかなか進まなかったのです。
そこで、無事に工事が進むよう人柱を立てることになりました。

人柱として選ばれたのが、城下に住む未亡人で片目を失っていた、お静という女性でした。
お静は、息子の将来を心配し、自分が人柱を引き受けるから息子を士分に取り立てて欲しいと条件を出し、城主の柴田勝豊はそれを約束しました。

人柱となったお静は地中に埋められ、石垣の崩落も止まって工事は進めることができました。
しかし、城主の勝豊はその後近江長浜へと移封されたため、お静の息子が士分に取り立てられることはありませんでした。

お静は約束が守られなかったことを恨みに思い、霊が大蛇となって暴れまわったと言われています。
そして、毎年田植えの季節になると丸岡城は大雨に襲われ、堀からは水が溢れてしまうようになったことから、これを「お静の涙雨」と呼ぶようになりました。

この他にも、かつて本多作左衛門重次が長篠の戦の際に妻へと送った手紙が日本一短い手紙とされ、それにちなんだ(新)一筆啓上賞という賞を設けています。
これまでに応募された手紙の中には、本や映画になったものもあります。

まとめ

丸岡城は、地元の人に愛されており、現在も市民団体などが国宝への指定を推進しています。
北陸地方唯一の天守で、現存する天主では最古のものと思われていたものの、実際には使われている建築様式が最古であるということだったので、若干の違いがあります。
桜の名所としても知られていて、春は多くの人でにぎわっています。

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