酒井忠次の正室「登与」(碓井姫)

歴史

徳川家康の家臣の中には、主君の親族と結婚した者もいます。

それが、酒井忠次です。

酒井忠次に嫁いだのは徳川家康の叔母である登与になるのですが、どのような人物だったのでしょうか?

また、結婚させた理由は何だったのでしょうか?

今回は、登与の生涯とエピソードについてご紹介します。

登与の生涯

登与は1529年に、松平清康と華陽院との間に生まれます。

ここで親族関係を整理しておくと、華陽院は松平清康と結婚する前に水野忠政と結婚し、於大の方を産んでいます。

つまり、徳川家康の母と異父妹であるのです。

松平家の姫君として生まれ育った登与にも、当然結婚の話がやってきます。

しかし、登与の結婚も戦国時代の他の女性と同様に、単純なものではありませんでした。

なんと、生涯で2度結婚することになるのです。

まず長沢松平家の松平政忠と結婚したのですが、夫が桶狭間の戦いで戦死してしまいます。

その後、徳川家康の家臣である酒井忠次に嫁ぐことになり、再び子どもに恵まれ生活を送りました。

登与は松平政忠の間には後継者の子どもを、酒井忠次との間には複数の子どもを設けましたが、これらの結婚にはちょっとした狙いが隠されています。

それは、徳川家康と家臣との繋がりをより強い形にしようとしたのでないかということです。

特に酒井忠次は徳川家康にとって厚い信頼を寄せる人物でしたから、血縁関係で繋がりを強くしようと登与を嫁がせたのでないかと考えることができます。

また、徳川家康からすると数少ない身近にいた血縁者になりますから、政治的な要素に関係なく、年齢が離れていても心強い存在だったことでしょう。

登与が自分にとって重要な存在になることを、もしかすると早い段階から見抜いていたのかもしれません。

時が経ち酒井忠次が隠居し、徳川家康が関東に入ると、家督を継いだ酒井家次に城と領地が与えられました。

その際、登与は酒井家次に同行して下総国碓井(臼井)に赴いたことが、「碓井姫」の由来になっていると言われています。

酒井忠次が亡くなった後、没日には諸説ありますが、1612年または1613年に登与は生涯を閉じました。

登与のエピソード

登与自身にエピソードが残っているわけではありませんが、酒井忠次との間に生まれた子どもたちは出世することになります。

特に家督を継いだ酒井家次は、後に越後高田藩10万石に移されています。

また、子孫も立藩をするなどしています。

さらに、もう1人の息子である本多忠次の養子となった本多康俊も、幕末まで家が存続していくことになります。

このように自分の子どもや子孫が出世し、家が存続していったのも、酒井忠次の家臣としての貢献に加えて、登与のおかげもあったことでしょう。

父である酒井忠次は、徳川家康にとって大事な家臣の1人になります。

そのため、徳川家が子孫にも目をかけてあげるのはあり得ることです。

また、登与が徳川家康の叔母であることも、子孫たちの出世に関係していると考えることもできます。

親とは違いますが、徳川家康に近い人物です。

何かしらの配慮があったとしても、おかしくありません。

先程、碓井姫の没日に諸説あることを触れましたが、葬られたと考えられている場所がいくつかあります。

『酒井忠次公傳』では遺言通り夫の酒井忠次と一緒の知恩院先求院に、『寛政譜』では三河国の宝蔵寺に葬られたと言われています。

それだけでなく、酒井氏が出羽国に移り庄内藩を開くと、大督寺に改めて葬られたのでないかとも言われています。

大督寺に葬られた際には、「大督寺光誉窓月」の法名を授けられたそうです。

ここで登場した大督寺は、元々酒井家次が碓井に入った際に三河大樹寺16世の慶円和尚を招いて開いた寺になります。

その時は「大信寺」としていましたが、酒井家次の転封と同時に寺も移動し、最終的に出羽庄内の鶴岡に定着した経緯があります。

つまり、酒井氏と共にあった寺だと言えるのです。

仮に夫の酒井忠次と一緒の墓に入っていたとするならば、夫婦生活で紆余曲折があったにせよ、良い関係でいられたのでないでしょうか。

「遺言通り」というところが、お互いに信頼関係を築いている証になるはずです。

最後に、登与が複数の名を持っていることをご紹介しましょう。

実名は「於久」と考えられていますが、酒井忠次が三河国の吉田城の城主になった際には「吉田殿」と呼ばれたそうです。

そして、碓井に移った際は「碓井姫」。

ここからも、登与の人生は酒井氏と共にあったことがよく分かります。

夫や息子の出世と共に名前が変わる女性は、同じ時代の女性を見ても多くいません。

子どもや子孫の時代だけでなく、登与が生きていた時も成功を収めた証拠として名前が変わっているのです。

夫が出世している様子を、妻の視点から見ることができる一例とも言えます。

まとめ

今回は、登与の生涯とエピソードについてご紹介しました。

登与は徳川家康の叔母にあたり、酒井忠次とは再婚した間柄にあります。

家臣との血縁関係を強めるための結婚という推測もできますが、結婚後、酒井忠次やその子どもたちは出世していきます。

登与の名前の変遷からも夫や子どもの出世の様子が分かるため、同じ時代を生きた他の女性たちとは違った視点で歴史を見ることができるきっかけになるはずです。

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