織田信長に追放された「佐久間信盛」

歴史

織田信長の家臣は優秀な一方で、主君に振り回されたり、離反してしまったりするエピソードも少なくありません。

織田家宿老として30年間ほど仕えていた佐久間信盛もその中の一人ですが、最終的に追放されてしまった背景には何があったのでしょうか?

今回は、佐久間信盛の生涯とエピソードについてご紹介します。

佐久間信盛の生涯

佐久間信盛は尾張国愛知郡山崎に生まれ、織田信秀に仕えていました。

後に幼少期の織田信長の重臣としてつけられることになり、相続問題でも味方として、常に織田信長の側についている人物でした。

また、殿軍の指揮をしたことが由来となり、「退き佐久間」としてうたわれるようになります。

そんな佐久間信盛は、織田信長が登場する主だった戦に参戦します。

1560年の桶狭間の戦いや1568年の観音寺城の戦いで戦功をあげ、浅井長政が織田信長と敵対した際も柴田勝家と共に南近江を平定しています。

1570年の姉川の戦いにも出陣していますが、戦だけでなく交渉の場でも織田信長の勝利に貢献しています。

1573年には織田信長の名代として足利義昭と和睦交渉を行い、1575年の長篠の戦いでは武田氏へ虚偽の内通を行う役目を担っていました。

そして、長篠の戦いの後の11月には、織田信長から安土城の構想を打ち明けられるとともに助言を求められたそうで、とても信頼される立場になっていたのです。

しかし、1576年に起こった石山本願寺包囲戦が佐久間信盛の人生の転機になります。

石山本願寺包囲戦で中心的な位置に立ち、1580年に長く渡った戦いに終止符を打ちます。

この時、佐久間信盛は織田家中で最大規模の軍を統括していた立場だったのですが、8月25日に織田信長から19条にわたる折檻状を突き付けられます。

貢献していたと思われる立場から一変して、離反せざるを得ない状況になってしまったのです。

そして、筆頭家老と畿内方面軍軍団長の地位を捨て、織田家から離れ、嫡男の信栄と少数の郎党と共に高野山へ上ることになりました。

その後、高野山からも見放された佐久間信盛は、従者も一人までに減り、最期は紀伊国熊野、高野山のどちらかで、55歳の生涯を閉じます。

嫡男の信栄は佐久間信盛の死後、織田信忠付けの家臣として帰参が許されましたが、宿老の立場とかけはなれた淋しい最期を迎えました。

佐久間信盛のエピソード

ところで佐久間信盛は、なぜ折檻状を突き付けられたのでしょうか?

19条の折檻状には、本願寺との争いに時間がかかったこと、一人で解決できないならどうして相談しなかったのかなどが細かく書かれていました。

佐久間信盛や嫡男の信栄は、常に織田信長のために働いていたことに変わりありません。

しかしながら、織田信長の視点から見ると、努力が足りないと感じることが以前から多々あったのです。

よく言われるのが、三方ヶ原の戦いでの行動、朝倉義景への対応、水野信元の謀殺の3つの出来事です。

三方ヶ原の戦いで「退き佐久間」と言われる働きをしたものの、織田信長はこの戦いで大事な家臣を失ってしまいます。

亡き家臣は命を懸けて戦ったのに、佐久間信盛軍は無傷で逃げることに成功したと考えるとどうでしょう。

無事に逃げ切ったことが、一概に良いとは言えません。

また、朝倉義景を追い込む際、結果としては成功したものの、念を押した指示を出したにも関わらず、家臣たちが出遅れてしまいました。

無事に戦が終わった後も、この点を反省点として家臣を叱ったところ、佐久間信盛が自分たちのように有能な部下はいないと返したそうです。

確かに有能なのかもしれませんが、朝倉義景の監視に抜けがなかったならば、行動が出遅れてしまうことはありません。

失敗を棚に上げた発言は、織田信長に限らず、誰でも怒りを抱いてしまうことでしょう。

武功をあげていても、遺恨が生まれてしまいます。

さらに徳川家康の伯父である水野信元の裏切りの疑いについて、織田信長に報告したのは佐久間信盛です。

その際、徳川家康の家臣に謀殺させるように働きかけており、一説によると佐久間信盛と水野信元には確執があり、罠にかけたのでないかと考えられています。

このような経緯があったことを踏まえ、本願寺での行動を見てみると、他の家臣は命をかけて行動していたにも関わらず、佐久間信盛にはそれが見られませんでした。

この状況が数年も続くと、織田信長も状況を打開する行動をとらざるを得ません。

19条の折檻状で、死ぬ気で戦功を立てるか、高野山へ行くかの2択を迫ったことも、家臣として自分の行動を見直すように強く言いたかったのかもしれません。

結果として高野山へ行く道を選びましたが、この出来事でショックを受けたのは佐久間信盛や信栄だけではありませんでした。

織田家の家臣にも、衝撃が走ったのです。

思うところはあったにしても武功を残していた人材が、織田信長のさじ加減で簡単に追放されてしまいます。

佐久間信盛は、家臣の中に不安感を抱かせる出来事を作ったと言える人物だったのです。

まとめ

今回は、佐久間信盛の生涯とエピソードについてご紹介しました。

織田信秀の頃から織田家に仕えており、家督の相続問題の時も織田信長の傍を離れず、重臣の立場として貢献してきました。

しかし、戦で武功をあげると同時に、織田信長は佐久間信盛の発言や行動から、少しずつ不満を溜めてしまいます。

19条の折檻状は佐久間信盛だけでなく、他の家臣にも織田信長の恐ろしさを植え付けてしまう影響を及ぼしました。

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