堀越城の歴史と特徴

歴史

青森県弘前市と言えば弘前城が有名ですが、実は堀越城もありました。
弘前城初代藩主の津軽為信が最期に城主となっていたのも、実は弘前城ではなく堀越城です。
堀越城というのは、どのような城だったのでしょうか?
堀越城がこれまでに歩んだ歴史と、城の特徴について解説します。

堀越城の歴史

堀越城は、南北朝時代の1336年に築城されました。
北朝方の曽我太郎貞光によって築城され、その翌年の1337年に初めて文献上に「堀越」という地名が登場しています。

それ以降、100年以上歴史上に登場せず、次に堀越城が登場したのは1571年のことでした。
そして、後に津軽為信となる南部右京亮為信が登場したのも、この時です。

当時為信は大浦城の城主だったのですが、津軽は南部氏によって支配されていました。
そこで、為信は大浦氏から独立するため、兵を集めます。
その際、自身の大浦城ではなく、堀越城に兵を集めていたのです。

そして、堀越城から出陣して石川城の城主であった南部高信を奇襲して、石川城を攻め落とします。
その後、大光寺城や浅瀬石城を攻略して、1591年頃には豊臣秀吉に大名として認められ、津軽右京亮為信となり領地安堵を得ることができたのです。

堀越城は1594年に改修され、為信は大浦城から堀越城へと居城を移します。
弘前城は1611年に弘前藩2代目藩主の信牧が完成させて拠点を移したのですが、それまでの17年間は堀越城が藩主である津軽氏の居城となっていました。

そして、1615年に一国一城令が発令されます。
弘前藩では弘前城を残すこととなり、それ以外の城は廃城となりました。
堀越城も廃城となり、現在は堀越城跡を残すだけとなっています。

1975年から1978年にかけて、国道7号弘前バイパスの改築工事、および前川の災害復旧工事が行われました。
それと併せて、堀越城の三の丸と外構、外堀の発掘調査が行われています。

1985年には、文化庁が戦国時代から江戸時代まで続いた大名に関して、居城や居館などを発展・展開順に指定するという方針を打ち出したのに伴い、津軽氏の発展形態を理解しやすくするために堀越城跡をすでに1952年に国の史跡として指定されている弘前城跡に追加する形で史跡として登録されました。

この時、史跡の名称が「史跡弘前城跡」から「史跡津軽氏城跡」に改められます。
しかし、2002年に鰺ヶ沢町の種里城跡も追加され、名称も「史跡津軽氏城跡種里城跡・堀越城跡・弘前城跡」となりました。

1989年に保存管理計画が策定され、1998年から2013年にかけてはその計画に基づいて史蹟整備を目的とした発掘調査を行っています。
2012年から2020年までには、1594年の大改修の姿に戻すために史跡整備工事位を行うことが予定され、無事に完了しています。

堀越城の特徴

堀越城跡では、1975年から1977年と、1998年から2013年からの2度にわたって発掘調査を行っています。
それぞれ、昭和の発掘調査と平成の発掘調査と呼ばれています。

昭和の発掘調査では、三之丸と外構、外堀で発掘調査を行っています。
その結果、三重になっている堀跡や竪穴建物群、柱穴などが発見されました。
また、三之丸南端では3時期にわたって格調が行われていることもわかっています。

また、遺物も発見されています。
瀬戸・美濃産の登記や羽口などの土製品に加え、へら・はしといった木製品、キセルのような金属製品も出土しています。

平成の発掘調査では、本丸から礎石建物群や問責が発見され、二之丸や三之丸では掘立柱建物跡が見つかり、堀からは木橋や土橋がかかっていた跡が見つかりました。
また、二之丸には多くの神代が並んで見つかったことから、城内には武士だけではなく鉄や銅製品を加工する鍛冶師がいたと思われています。

城内から発見された遺物は数多く、16世紀から17世紀初めにかけての中国産磁器の椀や皿が見つかり、国内産の壺や甕、皿、すり鉢なども見つかりました。
また、鍛冶作業の道具である木製坩堝や鉄製の釘、金箔押しの鎧の一部分、鉄製の鉄砲玉なども見つかりました。

そのほか、と医師や石臼なども出てきています。
堀からも漆塗りの椀やまな板、橋、桶、樽、曲物、下駄、鋤、鍬など大量の木製品も出土しました。

現在、堀越城跡には入場制限などはなく、犬の散歩に訪れる人もいるなど気軽に訪れることができる史跡となっています。
また、毎年秋には堀越城跡を舞台とした秋祭りが行われています。

弘前城では2016年に天守の曳家工事を契機とした地域振興のためのキャラクターとして「超城合体タメノブーンV」というロボット企画を制作したのですが、それを構成する5討つの城ロボの1つが「ホーリー」といって堀越城のことを指しています。

まとめ

堀越城は、初代弘前藩主の津軽為信が築城した城であり、南部氏からの独立にも深く関わっています。
弘前城の築城が進まなかったことで、津軽為信はこの城の城主として死亡しました。
国の史跡となっている堀越城跡ですが、その周囲には堀越集落が広がり多くの人に親しまれる史跡となっています。
現在、城址は熊野神社になっています。

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