松前城は、北海道では唯一となる日本式城郭を備えた城です。
正式には福山城というのですが、備後福山城と混同しないように当時から松前城、もしくは松前福山城と呼ばれていました。
松前城には、どのような歴史があるのでしょうか?
その歴史と、特徴について解説します。
松前城の歴史
松前城は、その前身となる福山館が1600年から1606年にかけて建設されていました。
本丸や二の丸、北の丸、櫓などがあったものの、松前氏は無城待遇だったため城を持つことができないことから、城と呼ばれることはありませんでした。
松前城が築城されたのは、異国船の到来に備えるためです。
1849年に江戸幕府から築城を命じられた松前藩主の松前崇広は、福山館を拡張する形で築城しました。
この時、縄張については日本三大兵学者に数えられた市川一学に依頼されています。
高崎藩主の松平輝聴の家臣だったものの、松前に息子と共に渡って藩内を調査し、築城に適した場所を意見具申しました。
1850年から縄張と福山館の撤去を始め、1855年に工事が完成しました。
その際の最大の課題となったのが費用の捻出で、家臣俸禄の1割献上や御用商人・町民からの献金、労働力提供などで賄いました。
完成後、幕府目付が見分して松前福山城と呼ばれるようになりました。
完成後は、町人や商人、領内各村から有力者や多額を献金した人が集められて、祝宴が催されています。
戊辰戦争が起こり、1868年に旧幕府軍は蝦夷地に上陸して五稜郭を占拠します。
そして、新選組副長の土方歳三を指揮官として、700名の松前攻略反を編成して五稜郭を出発します。
その数日後に津軽藩の偽の旗を掲げた蟠竜丸が松前湾に侵入し、松前城を砲撃します。
しかし、松前藩は城と各砲台から反撃して、蟠竜丸は沖へと逃亡します。
その数日後に、旧幕府軍が陸路から松前城を攻撃しました。
陸から攻撃を受けた際、藩主の松前徳広は館城に映っていたため、守備は城代家老の蠣崎広備と軍事方の三上超順が中心となっていたのですが、兵は100人足らずしかいませんでした。
旧幕府軍が艦砲射撃を行い、門を攻撃したのに対して、松前藩の兵は門を開いて大砲を発射し、すぐに占めるということを繰り返す作戦をとっていました。
旧幕府軍は門が開けられるタイミングを狙って突入し、城内で白兵戦となりました。
さらに多くの兵が突入し、戦力差も大きかったため落城してしまいます。
兵は退却する際に城に火をかけたのですが、その際は民家にも燃え移って町の4分の3が消失してしまいました。
旧幕府軍は人見勝太郎を松前奉行に任命し、町民を動員して地雷を敷設し、台場を新設して防備を強化します。
翌年になると、青森に逃亡した松前藩兵が先方となって、蝦夷地を奪還しようと企図して乙部に上陸します。
領民の協力も得られ、新政府軍は江差から松前に向けて進軍し、旧幕府軍を退けて松前城を奪還しました。
明治維新後は、家臣の俸禄維持や旧藩士の反乱などに備えるため、銅瓦や銅版がはがされました。
そして1874年には、天守、本丸表御殿、本丸御門以外の建物の解体を開始します。
その後、天守は公会堂として利用されていて、1935年に国の史跡として登録されます。
太平洋戦争末期になると、天守を隠すために藁縄を編んだものを被せていました。
終戦後に撤去したものの、白壁は崩れ骨組みがむき出しになっていて、鯱も落下していました。
修理は1949年に行われたものの、松前奉行所跡から出火してしまい、天守と本丸御殿東が全焼してしまいました。
天守は1959年から焼け跡の整地が行われ、本格的な再建工事が始まります。
翌年医外観工事が完成し、1961年に落城しました。
鉄筋コンクリート造で外観は焼失前を出来るだけ再現し、内部は資料館として利用されています。
2006年には、日本100名城の3番に選定されました。
老朽化が著しくなったことで、2010年から天守の整備活用について検討を始め、耐震診断などを経て2018年から木造による復元計画が立ち上げられています。
松前城の特徴
松前城の大きな特徴は、石垣にあります。
石垣に用いられている石材は、地元で産出される凝灰岩を使用しているため、緑が勝った色合いになっています。
また、積み方にも特徴があり、継ぎ目を作らない切込接なども見られます。
築城が幕末だったため、石垣の積み方では最終形態と言われる亀甲積みを用いられている箇所も随所に見られます。
また、外国船からの砲撃に備えることを目的としていたため、津軽海峡側の防備はかなり手厚くなっていて台場なども設けられているのですが、外堀や内堀などはかなり控えめとなっているのも特徴です。
石垣と土塁を併用している点も、珍しい点です。
また、二の丸と三の丸の間に曲輪が設けられている三本松土居も珍しいものです。
三の丸から二の丸に進軍する際はここを通るのですが、3本の松があることで視界を妨げるようになっているのです。
まとめ
松前城は幕末になり、津軽海峡に外国船が出没するようになってから防備のために築城された、最後期の日本式城郭であり、北海道で唯一の日本式城郭です。
海は警戒していたものの、陸側からの防備には意識をあまり向けていなかったことから、旧幕府軍によって数時間のうちに攻め落とされてしまいます。
貴重な城郭なので、一見の価値があるでしょう。