大阪城の歴史と特徴

歴史

大阪城は、戦国時代に豊臣秀吉によって築城され、現在は「太閤はんの城」と呼ばれ大阪におけるランドマークとして多くの人に親しまれる城です。
江戸城、名古屋城と並び日本三大名城に数えられる城で、戦国時代を代表する貴重な城郭です。
大阪城の歴史と特徴について、解説します。

大阪城の歴史

大阪城がある上町台地は、近くに淀川が流れそれを上ると京都へとつながるため、天然の要害であると共に交通の要衝でもありました。
戦国時代末期から安土桃山時代にかけては石山本願寺があったのですが、1580年の石山合戦の講和の直後に火災が起こり消失しています。

織田信長はこの地を高く評価し、跡地には大きな城を築くことを予定していました。
焼失後は丹羽長秀に預けられ、四国攻めの準備をしていた津田信澄が布陣して建物なども立てられていました。
本能寺の変の後、清須会議で池田恒興に与えられることとなりましたが、恒興がすぐに美濃へと国替えになり、秀吉の領有となりました。

1583年に秀吉が築城を始め、本丸は1585年に築かれました。
その後、二の丸、三の丸、馬出曲輪と大名屋敷と、15年をかけて段階に分けて整備されて行きました。

1598年に秀吉が死去すると、1600年に関ヶ原の戦いが起こります。
西軍が破れたことで、豊臣氏は220万石から65万7400石の一大名となったのですが、秀吉の遺児である秀頼は豪華絢爛な大阪城に住み続けていました。

ところが、1614年の大坂冬の陣では講和条件として、大阪城の惣構と二の丸、三の丸を破却するよう定められ、大阪城は本丸と内堀しか残らず裸城になりました。
そして秀頼が城を再建しようとしたために講和条件破棄とみなされ、大阪夏の陣で落城することとなったのです。

落城後、はじめは徳川家康の外孫である松平忠明に与えられたのですが、大阪城かの復興を任務として与えられていたため城そのものにはあまり手をかけませんでした。
1619年に忠明が移封され、大阪は幕府直轄地となって1620年には豊臣色を払しょくするために2代将軍秀忠が大阪城再築工事を始めました。

幕府直轄となったため城主は歴代将軍となり、城代は譜代大名から選ばれました。
江戸時代には1660年、1665年、1783年と落雷によって損傷し、修復するということを3度も繰り返すこととなります。
3度目は幕府が財政難だったため、町人御用達金によって総修復される1845年までそのままとなりました。

江戸末期には、1868年の王政復興の大号令によって二条城から追われた徳川慶喜が大阪城を居城としていました。
しかし、その後は新政府軍に城を開け渡すこととなります。
その前後に失火があり、大阪城は本丸を含めて場内の建造物がほとんど消失してしまいました。

明治になり、軍用地として用いられるようになりましたが、焼失した本丸桜門は1888年に復元されています。
また、1928年には当時の大阪市長によって天守債権を含めた公園整備事業が提案され、昭和天皇の即位記念事業として進められました。

市民からも150万円の募金があり、1930年から1931年にかけて天守再建工事が行われて完成しました。
1945年8月14日の大阪大空襲では、櫓や門などが焼失したものの天守閣は破壊を免れました。

その後、1950年にはジェーン台風によって大きな損傷を受け、1953年から復興工事が行われています。
そして、1995年から1997年にかけては平成の大改修が行われました。

復興した天守は今もなお健在で、大阪の象徴となりました。
周囲には大阪城公園が広がり、市民の憩いの場となっています。
1953年には大阪城跡が国の史跡、大手門などの建造物13棟は重要文化財に指定され、1997年には天守が国の有形文化財に登録されています。

大阪城の特徴

大阪城は上町台地にあり、北側には淀川が流れていて、東と西は低地になっているため天然の要害となっています。
しかし、南側は陸続きとなっていることから、その点を懸念した真田幸村が、真田丸と言われる出城を築き攻撃拠点としています。

これは、父の真田昌幸が以前から言っていたこととされています。
現在、真田丸は残っていませんが、跡地には三光神社が建立され真田幸村の銅像も建てられています。

大阪城は、豊臣氏が築城したときと徳川氏が修築したときとでは縄張りや構造などが変更されているのも特徴です。
豊臣氏の際は、黒田孝高が縄張りを担当し、本丸は高石垣ではなく3段構造になっています。

しかし、徳川氏は石垣と堀を破却し、藤堂高虎を総責任者として天下普請を行い、全体に1~10メートルの盛り土をしたうえで高く石垣を積み上げました。
そのため、豊臣氏の頃の石垣は土に埋まってしまいました。

さらに、天守などの建物についても構造を踏襲せず、新たなものに造り替えています。
9年間で3期にわたって天下普請を行った結果、城郭の面積は豊臣氏の頃の4分の1になったものの幅最大90メートルの外堀を巡らせて天守の高さと総床面積は豊臣氏の頃を超える規模となりました。

まとめ

大阪の街の象徴となっている大阪城は、昭和以降で初めて天守が再建された復興天守の第1号となる城です。
日本三大名城の1つにも数えられる、多くの歴史を持つ城として多くの歴史好きの人が訪れています。
また、大阪を象徴するランドマークとして、現地の人からも大切にされている城であり、未来に残すべき建造物であることは確かでしょう。

タイトルとURLをコピーしました