徳川家康を支えた経済人「鳥居忠吉」

歴史

徳川家康を支えた家臣は、武術に優れた戦国武将ばかりではありません。

経済的な面からサポートをしていたのが、鳥居忠吉になります。

松平家の当主3代にわたって仕えた鳥居忠吉は、松平家の再興を支えた人物でもあります。

ここでは、鳥居忠吉の生涯とエピソードをご紹介します。

鳥居忠吉の生涯

鳥居忠吉は、三河国の渡城の鳥居忠明の子として生まれます。

正確な出自は不明ですが、当主になって以降、三河国の松平清康に仕えていました。

松平清康は、徳川家康の祖父にあたる人物で、この頃から繋がりがあったことが分かります。

松平清康が討たれた後は、徳川家康の父である松平広忠に仕えました。

この時、松平広忠はわずか10歳だったため、鳥居忠吉は自分より幼い主君に仕えることになりました。

当時、今川家の傘下に入り、何とか家が存続していた状態ですが、松平広忠は1549年に亡くなってしまいます。

その後、新たな当主に徳川家康なりますが、後に今川氏の人質として扱われるようになります。

難が続く松平家は、家の存続の危機と隣合わせの状況でした。

当主が不在となった岡崎城を切り盛りしていたのが、鳥居忠吉です。

岡崎城の管理や政治が今川氏の管理に置かれますが、実際の政務は阿部定吉と鳥居忠吉で行われていました。

しかし、実務面の主導権を全て握っていた訳ではありません。

富の分配では支配している今川氏の割合が多く、松平家の分配が少ないため生活が困窮する事態に見舞われてしまいます。

そんな中でも、徳川家康が戻ってきた時に備えて、蓄財や倹約を徹底したのです。

さらに1560年の桶狭間の戦いでは、徳川家康に従軍します。

戦で今川義元が織田信長に討ち取られた後、鳥居忠吉は岡崎城で徳川家康にあるものを見せました。

それは徳川家康不在時に岡崎城を守りながら蓄えてきた財で、徳川家康は大いに感激したそうです。

その後も徳川家康に仕えることになり、1572年に生涯を終えました。

正確な年齢は不明ですが、80余歳だったと言われています。

徳川家康が戦国武将として独り立ちし、活躍するための土台を生涯かけて作った人物だと言えるでしょう。

鳥居忠吉のエピソード

鳥居忠吉が岡崎城の留守を預かっていた時代、経済面のやりくりを行い、財を蓄えることができたのは、水運事業に関わっていたからでないかと言われています。

鳥居家は「ワタリ」と呼ばれる、各地へ物品を買い求め、売り捌いた商工業者だったそうです。

元々のスキルは、矢作川の水運事業が基になっていると言っても過言ではありません。

鳥居家の渡城の近くに流れている矢作川を水陸交通の要衝としたため、そこから船や馬などの経済活動が活発になりました。

そこで得た財を、松平家再興の財として蓄えておいたのです。

そして経済活動を活発にしたノウハウを、松平家の財政に応用しました。

財政の管理は、お金の運用の知識に詳しくないとできません。

実体験でそれを学んでいた鳥居忠吉は、苦しい財政状況の中でも活路を見出してしたのです。

他の家臣が同じような状況に置かれたとしても、鳥居忠吉のような行動ができるとは考えられません。

この忠義心を表した行動は、「三河武士」と呼ばれました。

鳥居忠吉を始めとする松平家の家臣団は、主君の徳川家康が不在であること、隣国から攻められる危機が常にあることから、団結せざるを得ない状況でした。

しかし、この強い結束があることで、様々な困難に打ち勝っていきます。

困難な状況で家臣がバラバラの状態だったならば、徳川家康が戻ってくるまで城を守ることはできません。

たった一人の地味な行動かもしれませんが、それが家臣同士を結び付けることとなったのです。

そして鳥居忠吉の行動は、家臣だけでなく、朝廷にまで知られていました。

主君に対して忠義を尽くしていた戦国武将はたくさんいますが、朝廷にまで評判が知れ渡っていた人物は多くありません。

様々な立場の人から、忠義心の厚い人物だと評価されていたことで、三河武士の育成にも一役買っていたと言えます。

鳥居忠吉がいなければ、三河武士という存在はなかったことでしょう。

加えて、主君に従う姿勢を植え付けた人物だと断言できます。

徳川家康との関わりでは、次のようなエピソードもあります。

それは、鳥居忠吉が徳川家康に貨幣の扱い方を教えたことで、晩年に思い出を語りながら貨幣を積んでいたというエピソードが残っています。

徳川家康には多くの家臣とのエピソードが残っていますが、親子のような関係性のエピソードはあまり見られません。

徳川家康にとって鳥居忠吉は父親のような存在だったと言われていますから、単なる主君と家臣以上の情があったことでしょう。

それほど大きな存在だったと言えますし、祖父の代から仕えていることで信頼を寄せていたことが分かります。

徳川家康が今川氏の人質から解放された後は、高齢だったこともあって、引き続き岡崎城の留守の役目を果たしたそうです。

まとめ

ここでは、鳥居忠吉の生涯とエピソードをご紹介しました。

鳥居忠吉は、徳川家康が今川氏の人質になった際に不在となった岡崎城を守っていた人物です。

水運業に関わっていたノウハウを活かし、松平家の苦しい財政のやりくりから、財を蓄えることに成功しました。

城を守る姿勢は、三河武士の強さの手本となり、家臣同士の結束を強め、徳川家康が天下を取るための支えとなったのです。

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