徳川家康に見出され大出世した「榊原康政」

歴史

徳川家康に見出された家臣は何人かいますが、家臣の家臣から小姓となり徳川四天王、最終的に藩主になったのは榊原康政です。

初陣時の武功から、徳川家康の「康」の字を賜った経緯がある人物でもあります。

どのような経緯で、出世していったのでしょうか?

今回は、榊原康政の生涯とエピソードをご紹介しましょう。

榊原康政の生涯

榊原康政は、1548年に三河国上野郷の榊原長政の次男として生まれます。

幼少期から勉強が好きで励んでおり、13歳の時に徳川家康に見出されて小姓になります。

三河一向一揆で初陣し、武功をあげました。

その後、次男である榊原康政は兄を差し置いて、家督を相続することになります。

次男の榊原康政が家督を継いだ理由は、兄が病弱であったという体調面の不安が関係しています。

それだけでなく、榊原康政が徳川家康の長男である徳川信康の御守役だったこともあり、相続対象になったのでないかと考えられています。

1566年、榊原康政は19歳の時に元服しました。

この時、同い年の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢され、旗本部隊の将として活躍します。

徳川家康が関わる戦いとして、1570年の姉川の戦い、1572年の三方ヶ原の戦い、1575年の長篠の戦いに参戦し、武功を立てたり勝利に貢献したりしています。

1582年の本能寺の変では、徳川家康の伊賀越えに同行し、1584年の小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉の甥豊臣秀次軍をほぼ壊滅に追い込みました。

1590年の小田原征伐では、徳川軍の先手を務めます。

また、榊原康政の活躍は戦場に限りません。

1599年に起こった宇喜多騒動では、宇喜多家中で家臣内の対立が発生した際、調停役として派遣されました。

派遣された背景には、自身の側室が宇喜多家の縁戚であることと、本人の能力を買われたことが関係しており、無事に問題を解決しています。

このように能力を買われた出来事は、他にもあります。

1599年に石田三成が、伏見館の徳川家康を謀殺しようとする動きを見せた時です。

守りに入る際、相手方に兵を多く見せるため関所を設け往来を制限したり、京や伏見、淀に兵を送り兵量一つ残らず買い取ると触れ回ったりして、対策を講じました。

しかしながら1600年の関ケ原の戦いで榊原康政は、徳川秀忠軍の軍監として従軍しますが、使者の遅れや天候の関係で、大遅刻してしまいます。

徳川家康は大一番の戦に遅刻してきたことで、徳川秀忠を激怒しましたが、榊原康政のおかげで無事に済んだそうです。

関ケ原の戦いの後は老中になりますが、1606年に毛嚢炎を患い、その症状が悪化してしまい、榊原康政は59歳で生涯を終えました。

榊原康政のエピソード

榊原康政を知る上で欠かせないエピソードには、家臣などの人間関係から生まれたものが多くあります。

まずは、豊臣秀吉とのエピソードをご紹介しましょう。

小牧・長久手の戦いで主君の徳川家康が豊臣秀吉と戦った際、榊原康政は相手を挑発しようと檄文を出します。

檄文は自分の意見を述べ、周りを扇動する手紙なのですが、豊臣秀吉に対して織田家を豊臣秀吉が乗っ取ろうとしている旨の内容を書いたのです。

当然、豊臣秀吉は檄文を読み激怒します。

その怒りようは榊原康政の首に対し10万石をかけ、武将たちに焚きつけたほどでした。

豊臣秀吉を大激怒させることを榊原康政は狙って檄文を出したため、まさに狙い通りの展開になったと言えるでしょう。

小牧・長久手の戦いが和睦により終結すると、榊原康政は豊臣秀吉から呼び出しを受けます。

当然、戦中の檄文の内容のこともあったため、叱責を受けるのでないかと本人も思っていたのですが、実際は違いました。

豊臣秀吉は檄文のことを許し、和睦のために行われる徳川家康の妹との結納係に指名したのです。

これには、榊原康政も驚いたことでしょう。

加えて、結納係になるにあたり官位を授け、豊臣の姓を授けるなど、檄文を書いた相手にしては好待遇の扱いを受けたのです。

豊臣秀吉の器の大きさが分かるエピソードでもありますが、許された男としても有名になったのです。

次は、同じ徳川四天王であった井伊直政とのエピソードです。

井伊直政と榊原康政は、徳川家康に取り立てられ、一気に出世したという共通点があります。

しかし、井伊直政は榊原康政より一回り年下であったため、年齢、活躍などの要素から嫉妬心や恨みなどの複雑な感情を持っていました。

この時、2人を繋いでくれたのが酒井忠次です。

酒井忠次は徳川四天王の中でも先輩にあたるため、両者の関係に対し、榊原康政を叱ったというエピソードが残っています。

先輩からの話や井伊直政の働きぶりを見た結果、気持ちを改めて接するようになったそうです。

それ以降はお互いにとても仲良くなり、信頼し合うまでの関係になりました。

まさに、「雨降って地固まる」を体現した2人だと言えます。

また、戦国武将としての気質にも似通ったところがあったため、仲良くなれたのも自明の理なのでしょう。

まとめ

榊原康政は次男であるため、本来なら大出世するような人物ではありません。

しかし、徳川家康に見出されたことで、徳川四天王の一人として活躍するまでになりました。

関ケ原の戦いで大遅刻をしてしまったものの、徳川家康の家臣として、仲間からも信頼されるようになります。

知略に長けた人物であることは、豊臣秀吉からも高く評価されていると言えるでしょう。

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