現存12城その⑦「松江城」

歴史

松江城は、現存天守12城の1つであり、同時に国宝5城にも数えられています。
島根県松江市にあり、江戸時代に築かれた歴史ある城ですが、築城されてから今までの間に様々な出来事が起こっています。
これまでの松江城にまつわる歴史と、特徴的なエピソードを紹介します。

松江城の歴史

松江城は、関ケ原の戦いで戦功をあげた堀尾忠氏が築城しました。
戦功によって隠岐・出雲24万石を得て月山富田城に入城して松江藩が成立した際、月山富田城では近世城下町の形成が難しかったため、亀田山に1607年から築城を開始し、1611年に落成しました。

しかし、1633年に堀尾忠氏の長男である堀尾忠晴が亡くなり、堀尾氏は嗣子がなく3代目で改易となってしまいます。
1634年に京極忠高が出雲・隠岐両国に入封し、松江城の三の丸を造営して全容が完成しました。

ところが、1637年に忠高も嗣子がないまま没してしまい、京極家宗家も一時廃絶します。
その翌年には、松平直政が入封してそのまま明治維新まで続きます。

1871年の廃藩置県で松江城は廃城となり、1873年の廃城令に伴って天守以外の建造物は4円から5円で払い下げられます。
天守も180円で売却されたものの、出雲郡の豪農や元藩士が同額を国に治めて買い戻され、保存されることとなりました。

所有者は松平家のままでしたが、1927年に天守を含めた城地を松江市に寄付します。
それ以降は、公園として開放されました。
1934年には国の史跡として指定され、翌年には店主が当時の国宝保存法に基づいて国宝として指定されます。

1950年には、文化財保護法に基づいて天守が重要文化財に指定されます。
1992年に都市景観100選に選ばれ、2006年には日本100名城の64番目に選定されます。
そして、2015年には国内では5件目、65年ぶりに天守が国宝に指定されます。

松江城は平山城で、江戸時代には松江藩の政庁として出雲地方の政治経済の中心となっていました。
山陰地方では、唯一現存する天守でもあります。

亀田山にある天守からは宍道湖を眺望することができ、日本三大湖城の1つにも選ばれています。
また、城の周囲の堀川は宍道湖とつながっていて、薄い塩水となっています。

松江城のエピソード

松江城は、築城する際の伝説などが残されています。
また、国宝に指定されている城ですが、その指定までには様々な動きがありました。
そういったエピソードについて、紹介します。

松江城の築城に伴って、人柱伝説が語り継がれています。
天守台の石垣を築く際に何度も崩れ落ちて築くことができなかったため、工夫の間では人柱がなければ工事の完成は無理という意見が出されたため、盆踊りを開催していけにえを選びました。

最も踊りが上手く最も美しい少女が選ばれ、踊りの最中にさらわれます。
事情も分からないまま人柱として娘は埋められてしまい、石垣工事は無事に進み城も無事に落成することができました。

しかし、城主の親子は嗣子もないまま急死して改易となり、人々は人柱になった娘の祟りだと恐れ天守は荒れ果てたまま放置されます。
それから、松平直政が入城するまでの間、天守からすすり泣きが聞こえていたと言われています。

これには別の説もあり、崩落部分から槍の刺さったどくろが出てきて堀尾吉春の旧友の虚無僧が祈祷しても祓うことができなかったため、自分が人柱となるから息子を士官させて欲しい、と言って犠牲になったともいわれています。

松江城が国宝として認められたのは、国宝5城の中で最後です。
国宝指定への動きとして運動や陳情などが昭和30年代から行われていたものの、なかなか指定されるまでは至らず長い期間が過ぎていきました。

2009年に松江市長に当選した松浦氏は、公約に松江城の国宝指定も掲げていて委員会や市民の会などを立ち上げています。
そして、懸賞金をかけて史料を探していました。

その甲斐あって、平成24年に松江神社から国宝指定に重要となる築城時期の特定が可能な資料が見つかります。
それを基に文部科学大臣に国宝指定の答申をし、2015年にようやく国宝に指定されたのです。

松江城は復元事業も進められていて、1960年には本丸一ノ門と南多聞の一部が復元されました。
1994年には三の丸と二の丸を結ぶ廊下門や、二の丸下段の北惣門橋が復元されています。

二の丸の建造物も、2000年に南櫓と塀の一部、その翌年には中櫓と太鼓櫓、塀の一部が復元されています。
松江市では、さらに大手門を復元するべく、懸賞金をかけて図面や古写真などの史料を探しています。

まとめ

国宝に指定されている松江城は、築城後に城主となった2家が嗣子がないせいで短い期間で改易となっていたため、様々な憶測が生じて人柱伝説なども生まれました。
国によって天守が売り払われようとしたときは地元の有志によって買い戻される等、地元で大切にされていることがわかります。
史料の不足もあって国宝として指定されたのが2015年と、他の国宝の城よりも遅かったものの、その重要度は他の城に負けてはいないでしょう。

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