ゲームや漫画などで服部半蔵は、伊賀の忍者として登場することが多いです。
しかし、実際は忍者としてより、武士として活躍していたと言えます。
特に徳川家康の家臣として仕えた際には、多くの戦歴を残しています。
ここでは、服部半蔵の生涯とエピソードをご紹介します。
服部半蔵の生涯
まず、服部半蔵の生涯を語る上でお伝えしたいのは、「服部半蔵」と呼ばれる人物が複数いることです。
「半蔵」という名前は服部家の当主が世襲するものであり、約12代続いています。
徳川家康に仕えたのは2代目の服部正成になり、色々な作品で紹介されることが多いのも2代目です。
ここでは、2代目服部半蔵の生涯をご紹介します。
2代目服部半蔵(服部正成)は、1542年に三河国の伊賀で初代服部半蔵である服部保長の五男または六男として生まれます。
父は松平家に仕えていたため、自身もその流れで徳川家康に仕えることになりました。
16歳の時に初陣し、夜襲で成功を収めたことから、徳川家康から槍と盃を拝領したと言われています。
桶狭間の戦い以降は徳川家臣団の旗本馬廻衆に所属し、徳川家康や他の家臣と共に戦で活躍していきます。
1570年の姉川の戦いや1572年の三方ヶ原の戦いでは、一番槍の功名を上げる活躍を見せました。
三方ヶ原の戦い後は、その成果として伊賀衆150人を預けられたほど、実力が認められていたのです。
1582年の本能寺の変が起こった際には、伊賀越えの成功に一役買っています。
織田信長が亡くなった際、伊賀を超え船で三河国に帰ることになったのですが、その道中は決して安全ではありません。
道が不明な問題だけでなく、山賊、落ち武者狩りに遭遇するリスクがありました。
さらに織田信長と同盟関係にあったことに加えて、徳川家康の首を狙う賞金稼ぎがこの機に乗じて襲ってくる可能性があったのです。
この時、服部半蔵は伊賀の地侍やその土地の豪族に警護してもらうよう交渉し、無事に三河にまで辿り着きました。
その道中は、忍者しか知らないルートであったことも、無事に三河に辿り着いた要因の一つになります。
交渉やルート選びが失敗していたなら、どうだったでしょう。
その後、天正壬午の乱や1584年の小牧・長久手の戦い、1590年の小田原征伐にも参戦します。
小田原征伐の後、自身は武士であるものの祖先や父が忍者であったことから、忍者を統率する立場になりました。
多くの人が抱く忍者関係のイメージは、ここがきっかけとなって作られたのでないかとも考えられています。
服部半蔵は、1597年に病気で亡くなり、55歳で生涯を閉じました。
2代目の死後は、服部正成の嫡男である服部正就が3代目服部半蔵を引き継ぎます。
服部半蔵のエピソード
武将として数々の敵と戦ってきた服部半蔵は、「鬼半蔵」という異名を持っています。
その由来は、1569年の掛川城攻めにあります。
この時服部半蔵は28歳で、伝令や使者などを務める使番として戦場にいました。
しかしながら、服部半蔵は使番の役目だけでなく、なんと先頭に立って大槍で次々と敵を倒していったのです。
その姿は、尋常ではありませんでした。
記録の中には、人を小石のように投げ飛ばし、それに当たった敵が血を吐いて死んでしまったとあるくらいです。
徳川家康の家臣には歴戦の猛者が多く、戦で多くの功績や逸話を残していますが、このように剛腕さが目立つ逸話を持つ武将は多くありません。
この様子を見た敵からは、戦いを挑む者がいなくなったそうです。
敵に恐怖心を与える姿、勇猛さから服部半蔵を称え、「鬼半蔵」と呼ばれるようになりました。
また、鬼半蔵と呼ばれた服部半蔵の幼少期の活発さが分かるエピソードも残っています。
服部半蔵は幼少期から丈夫な体で、力持ち、暴れん坊として育ってきた、という記録が残っています。
ところが、6、7歳頃に大樹寺に預けられ、修行をする身になりました。
しかしその3年後、出家を拒否するようになりその意思を伝えますが、両親はそれを認めなかったため、思いもよらない行動に出ます。
なんと、修行をしていた大樹寺から逃げ出してしまったのです。
そもそも出家を拒否した理由は、修行が退屈で本人も力を持て余してしまっていたところにあります。
ひょっとすると勇猛さの片鱗は、幼少期からあったのかもしれません。
この出来事に父は驚き勘当してしまいますが、ここで救いの手が差し伸べられます。
兄たちが服部半蔵を可愛がっていたため、勘当されたものの、兄の支援の下成長していったのです。
幼少期の性格が影響しているかどうかは不明ですが、出家を嫌がり寺から抜け出してしまうエピソードを持っている人物は中々いません。
このわんぱくさが、戦時の剛腕さに繋がっているとも言えるのでないでしょうか?
そして、兄たちとは初陣時に一緒に戦うことになります。
幼かった服部半蔵の初陣時の戦いぶりを見て、兄たちも喜んだことでしょう。
まとめ
ここでは、徳川家康に仕えた服部半蔵の生涯とエピソードについてご紹介しました。
父や祖先が忍者だったことを活かして、徳川家康を窮地から救ったとして有名です。
さらに、戦場での勇猛な戦い方から「鬼半蔵」の異名を持ち、多くの敵を倒してきた記録が残っています。
忍者のイメージが強い人物ですが、実際は武将であり、忍者を統率していた立場だったと考えるのが正確でしょう。