仙台藩初代藩主で処世術の達人「伊達政宗」

歴史

伊達政宗は、人気の高い戦国武将の1人で、奥州の覇者とも呼ばれる人物です。
右目を失ったものの、戦場での活躍はめざましいものでした。
さらに、仙台藩藩主となってからは、政治や貿易に力を入れ、藩を豊かにしていきます。
今回は、仙台藩の基礎を築いた伊達政宗の生涯とエピソードをご紹介します。

伊達政宗の生涯

伊達政宗は、出羽国米沢城で、伊達氏第16代当主の伊達輝宗と義姫の嫡男として生まれます。
幼名は梵天丸で、伊達輝宗の隠居に伴い家督を継ぐことになります。
家督争いがひと段落したと思った矢先、伊達政宗の周囲に味方がいない事態に陥りました。

義姫の兄である最上義光と敵対関係になり、同盟関係が破綻してしまうのです。
さらに伊達包囲網の連合軍が作られ、窮地に陥ります。
このとき、義姫の説得により最上義光との衝突が回避された後、伊達包囲網を形勢していた蘆名義広を滅亡に追い込みました。
これにより、伊達政宗は奥州平定を成し遂げたのです。

それから、小田原征伐に参戦しますが、なんと遅刻してしまいます。
さらに小田原征伐後に一揆の首謀者の疑いがかけられ、領地替えの措置を取られました。
関ケ原の戦いでは、伊達政宗は徳川家康側に付き上杉征伐に協力しましたが、同時に領地拡大を企んでいたことが発覚し、報酬の約束が取り消しになってしまいます。

関ケ原の戦いの後は、仙台に移り仙台藩藩主として力を尽くすことになります。
領国の開発として運河の整備など行い、仙台米が江戸に多く輸出され、穀倉地帯として栄えるようになりました。
「江戸の消費米の3分の1」と言われるくらいですから、食における仙台藩の重要性は高かったと言えるでしょう。

しかし、1634年頃から体調不良を訴えるようになり、参勤交代に出発した際も症状が良くなく、休みながら進まざるを得ない状況だったそうです。
そんな伊達政宗は、1636年に70歳で生涯を終えました。

健康に気を遣っていても、年齢には勝てなかったのでしょう。
野心に燃えた伊達政宗ですが、晩年は穏やかに過ごしたそうです。

伊達政宗のエピソード

伊達政宗には、天下人になる野望を抱いている豪胆な人物というイメージがありますが、処世術に優れていた人物としても有名です。
ここでは、それが分かるエピソードをご紹介します。

まずは、小田原征伐に遅れて参加した伊達政宗が、豊臣秀吉と面会した時のエピソードです。
そもそも小田原征伐に遅れた理由は、迂回して行軍したことや家中のトラブルがあったためです。
幽閉先で前田利家が訪問した際の対話を聞いた豊臣秀吉が、伊達政宗に会ってみたいということで面会がなされました。

そして面会の時、伊達政宗はなんと死に装束に短刀を持って現れたのです。
これは死を覚悟した姿なのですが、その姿に豊臣秀吉やその場にいた諸将は当然驚きました。
死を覚悟するくらい反省しているという様子が、その姿を見て伝わったのか、豊臣秀吉は遅れて参加したことを許したのです。

もちろん、遅れたことに対する処分はありましたが、処刑を回避することができました。
この行動は一説によると豊臣秀吉の性格を知った上で行ったそうですが、実際に行動できるかどうかは別の話になります。
そして、この出来事の影響は伊達政宗だけに留まりません。

伊達政宗には多くの家臣や領民がおり、自分のプライドによる行動で運命が決まってしまうのです。
そうなると、与えられたチャンスを逃すわけにはいきません。
覚悟を決め素直に謝罪の意を表したことが、豊臣秀吉の評価を変えたのでしょう。

また豊臣秀吉とは、次のようなエピソードもあります。
それは、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次が切腹させられた事件です。
これは豊臣秀吉が息子の豊臣秀頼に家督を譲りたいと考え、次の関白だと約束していた豊臣秀次を謀反者に仕立てあげたという、家督争いによって起こった事件です。

伊達政宗は、切腹した豊臣秀次と親しくしていたため、罪に問われるかどうかの事情聴取の対象となりました。
事情聴取で伊達政宗は、「豊臣秀次と親しくしていたのは豊臣秀吉が全て譲ると言っていたから尽くしたのだ」と言います。
そして、「これが罪に問われるなら仕方がないので、首を刎ねたら良い」とも言ったのです。

事情聴取での伊達政宗は、豊臣秀吉の活眼であっても見抜けなかったものを、自分が見抜けるでしょうかという意味の発言をしました。
伊達政宗の発言に、豊臣秀吉は頷くしかなく、結局は罪に問われることがありませんでした。
機転の利いた弁明ができたことも、伊達政宗が処世術に優れている理由の1つになります。

戦国の世は、力が強いだけでは生き残れません。
人のことを知り、コミュニケーションを取りながら、上手く立ち回る処世術も必須ですから、早く生まれていたなら伊達政宗は大きな脅威となったことでしょう。

まとめ

今回は、伊達政宗の生涯とエピソードをご紹介しました。
家督を継いだ際、周囲に味方がいない事態に陥りましたが、奥州を平定するまでの実力者になりました。
豊臣秀吉とのエピソードでは、処世術により何度も危機を回避し、武力以外でも優れていることが分かります。
他者を知り、コミュニケーションを取ることで良い結果を導いていた伊達政宗の処世術は、現代人も参考にすべきでしょう。

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