徳川家康の周りには、優秀な三河武士が何人もいました。
中でも大久保家は、徳川家康の祖父松平清康の代から仕えており、戦で手柄を立ててきた一族です。
さらに大久保忠世は、家臣としてだけでなく、治水事業で成果を出したことでも知られています。
今回は、大久保忠世の生涯とエピソードについてご紹介します。
大久保忠世の生涯
大久保忠世は、1532年徳川家家臣の大久保忠員の長男として生まれます。
初陣は15歳でしたが、その後も数々の戦に参戦し、武功をあげていくことになります。
大久保忠世が活躍した代表的な戦は、1563年三河一向一揆と1572年三方ヶ原の戦いです。
三河一向一揆では、上和田砦に籠り徳川家康のために戦いました。
三方ヶ原の戦いでは、敗戦後に闇夜に武田氏の陣のある犀ケ崖を銃撃し、混乱に陥れました。
この時の行動に対し、武田信玄は「勝っても恐ろしい敵」だと称賛しました。
闇夜の銃撃は、敗戦後に味方を励ますために行ったことですが、結果として武功をあげるに至ったのです。
小久保忠世の武功は、さらに続きます。
1575年の長篠の戦いでは、織田信長から称賛を、徳川家康から褒美として「ほら貝」を与えられます。
同時に二俣城の城主に命じられ、武田氏の来襲に備えて城の改修を行っていきました。
1590年の小田原の役では、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼした後、城主が不在となった小田原城の新しい城主に大久保忠世が命じられます。
小田原城は関東防衛の要所になりますが、酒匂川が氾濫を繰り返し「暴れ川」と呼ばれていたため、城主就任後から治水事業に取り組んでいきます。
しかしながら、無念にも大久保忠世は治水事業の途中、1594年に亡くなってしまい、63歳で生涯を閉じてしまいます。
小田原城主としての治水事業は、大久保忠世から息子忠隣に引き継がれ、酒匂川に「春日森土手」「岩流瀬土手」「大口土手」の3つの堤防を築き上げました。
親子2代通して行われた治水事業の形は、1707年の富士山噴火により失われてしまいましたが、治政者としての評価は後世に残っています。
大久保忠世のエピソード
大久保忠世の評価は、治水事情のことだけではありません。
生涯にもある通り、時の人である織田信長や豊臣秀吉からも武将として高く評価されているのです。
長篠の戦いで織田信長は、大久保忠世と弟忠佐の戦場偵察を高評価しました。
徳川家康に対し、「良い配下を持っている、彼らは敵の下を決して離れない」と話していたそうです。
また、徳川家康に対しても「武将を従えることに関しては適わない」と感じていたようです。
また、豊臣秀吉からは小田原城の城主に命じられた際、大久保忠世に対し、ある質問を投げかけました。
それは、豊臣秀吉と徳川家康の間で戦が起こった場合、どちらの武将として戦うのか、ということです。
この時豊臣秀吉は天下人としての地位を確立していましたので、空想上の話であってもどちらの味方になるのかで大きく状況が変わります。
大久保忠世はこの質問に対し、あくまでも主君である徳川家康に仕えると言い、さらに豊臣秀吉の命が自分の掌中にあると言い放ったのです。
迷わず徳川家康を選択したことは、三河武士のあり方を体現したものと言っても過言ではありません。
この回答に徳川家康と豊臣秀吉は驚き、和やかだった場も急に白けてしまったというエピソードが残っています。
戦国時代の中心となった武将に一目置かれた存在であったため、徳川家康に忠誠を誓う姿が多くの人を惹きつけたのでしょう。
とはいえ、大久保忠世は徳川家康の家臣、戦国武将の中で目立った存在ではありませんでした。
なぜかというと、戦での派手な活躍や豪快さが分かるエピソードが、他の武将と比べると少ないからです。
細かいエピソードは残っているものの、他の武将の派手なエピソードに埋もれてしまうのでしょう。
ですが、地味であっても徳川家康に貢献した事実に変わりはありません。
最後に、大久保忠世の日常生活にまつわるエピソードをお話ししましょう。
大久保忠世を始めとする徳川家康、松平家に長く仕えている家臣は、困難な状況に直面した経験から、質素倹約の意識を持っていました。
大久保忠世も、その一人です。
大久保忠世は万が一の出費に備えて、日頃から「七食わず」を実践していたそうです。
これは、一か月のうち7日間食事を摂らないことを意味し、食費を浮かせることを目的とした倹約法になります。
現代でも健康のための断食というのがありますが、ここまでの実践をすることはあまりありません。
この倹約法は、城主になり倹約が必要なくなった時も続けていました。
生涯とエピソードを踏まえると、治水事業で成果を残したことに限らず、戦の面で多くの武将から評価され、倹約家であったことが分かります。
有名な家臣にばかり注目が集まりますが、大久保忠世も徳川家康が天下人になるまでに欠かせない人材だったことが断言できます。
まとめ
今回は、大久保忠世の生涯とエピソードについてご紹介しました。
徳川家康の祖父の代から仕えている大久保家は、戦で手柄を立てていることで有名で、大久保忠世も多くの武功を残しました。
小田原城主になった際は治水事業に着手し、親子2代かけて無事に成功しました。
武田信玄や織田信長、豊臣秀吉が実力を評価するほどの武将であったため、他の武将の活躍に隠れてしまっているものの、有能な武将だったと言えます。