鎌倉幕府の屋台骨を築き上げた「北条義時」

歴史

北条義時は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武士です。
北条市の一問で、鎌倉幕府の第2代執権でした。
源氏将軍が断絶した際は鎌倉幕府の実質的な指導者となった義時は、どのような人物だったのでしょうか?
その生涯と、エピソードを紹介します。

北条義時の生涯

北条義時は、1163年に北条時政の次男として誕生しました。
兄は宗時、姉は政子の同母の弟で、姉の政子は義時が15歳前後の頃に当時伊豆の流人だった源頼朝へと嫁いでいます。

義時は、1181年に頼朝の寝所を警護する11名のうちの1人に選ばれました。
寝所伺候衆と呼ばれていて、後に家子といわれ源氏血縁者と一般御家人との中間とされていて、義時は家子の中でも家子専一、つまり側近筆頭だったといわれています。

1182年、時政は頼朝と反目し、伊豆に立ち退きます。
しかし、義時は父に従わずに鎌倉に残っていたため、頼朝から称賛されて側近として重用されるようになり、戦でも活躍します。
一方、時政は長い間失脚状態になってしまいます。

1199年に頼朝が死去すると、義時は2代将軍の源頼家の元で政務を談合する十三人の合議制の1人となり、同じく参画した父と共同歩調をとるようになりました。
しかし、1203年に頼家が病に倒れると、時政は頼家の舅を謀殺し、嫡子に軍勢を差し向け、頼家の将軍位を廃して伊豆国修善寺に追放します。

そして12歳の実朝を3代将軍に擁立して、大江広元と並んで政所別当となり実権を握ります。
この時、頼家の嫡男である一幡は襲撃から一度は逃れたものの、後に捕らえられて義時の手勢に殺されたともいわれています。

義時は、1204年に相模守に任じられます。
同年、頼家が修善寺で死去したのですが、これは義時の手勢による暗殺という説もあります。

その後、御家人の中でも最有力者となった義時は、儀式における序列で第1位を占めるようになりました。
そして実権を握ったものの、その権力の行使には慎重だったと言われています。

1219年に、実朝が頼家の子である公暁に暗殺されてしまい、源氏の正統は断絶します。
義時は当日体調不良で生き延び、頼朝の異母弟の阿野全成の子の時元が将軍になるために挙兵したとして討ち、公暁の異母弟の禅暁も誅殺します。

1221年に後鳥羽上皇によって義時追討の官宣旨が出されて、義時は生涯最大の難局を迎えます。
そして京へと出撃することを決断し、義時の嫡男泰時を総大将、次男の朝時と弟の時房を大将軍に任じ、東海道と北陸・東山から京へと上ります。
東国武士が続々と参戦して、最終的には総勢19万人までふくれあがりました。

幕府軍は、鎌倉を出発してからわずか1カ月ほどで京都を制圧します。
後鳥羽上皇は宣旨を撤回したものの、計画は近臣が勝手に行ったと言い出します。
しかし、幕府は厳しい態度をとり、後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島には慰留されてしまいます。

蘭が終わってから、義時は陸奥守と右京権大夫を辞職して無官となります。
1224年に義時は健康長寿などを願い100日にわたって泰山府君祭を開始しましたが、同年に62歳で死亡しました。

北条義時のエピソード

北条義時は、どのような人物だったのでしょうか?
その人物像を示すエピソードがいくつか残されているので、紹介します。
鎌倉幕府において重要人物だった義時について、詳しく知りましょう。

北条義時の正室は姫の前という、源頼朝の乳母だった比企尼の親族の娘でした。
姫の前は幕府の序官として働いていて、義時が見初めて何度も恋文を送ったものの、相手にされていなかったそうです。

その話を聞いた源頼朝は、姫の前を呼び出して義時に嫁ぐことを勧めたといわれています。
2人は仲睦まじく暮らしていたのですが、後に北条氏と比企氏が権力争いをしたときに巻き込まれてしまい、離縁することとなりました。

また、北条義時は一時期、江間と名乗っていた時期がありました。
吾妻鏡にも江間殿、江間小四郎という名前で登場しています。
江間というのは、北条氏の領地に隣接する土地の地名であり、元は別の豪族が治めていたのですが、後に義時の領地になっています。

当時の武家では、家名を名乗ることができたのは当主とその嫡男だけであり、義時は次男なので北条とは名乗ることができなかったのです。
しかし、嫡男の宗時が亡くなって北条と名乗る権利が与えられても、江間と名乗っていました。

その理由として、時政は義時を分家させて本家から切り離していたのではないか、と考えられています。
また、いつから北条と名乗るようになったのかも不明です。

北条義時は、3代将軍の源実朝を暗殺した黒幕ではないか、と長い間言われていました。
事件が起こった時、本来であれば義時が実朝のボディーガードを勤めるはずだったのですが、直前に体調不良となって代役を立てていたのです。

そして暗殺されたことから、義時は仮病だったのではないか、と疑われていたのです。
実行犯がすぐ殺害されて、詳しい調査が行われなかったのも疑われる要因です。
しかし、義時には将軍を暗殺するメリットがなくかえって苦労していたことから、黒幕説は見直されつつあります。

まとめ

2022年の大河ドラマでも取り上げられた北条義時は、初代の頼朝から2代将軍の頼家までの間、鎌倉幕府の屋台骨を築き上げた重要人物です。
父との対立や主君の暗殺、更には上皇から宣旨で追悼令が出されるなど、その生涯は波乱万丈でした。
しかし、そういった困難を無事に乗り越えて、大成したのです。
その一方で、正室との縁を頼朝に結んでもらうような一面もある、魅力的な人物でした。

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