江戸の出版を大きく変えたメディア王「蔦屋重三郎」

歴史

2025年の大河ドラマの主役となったのは、江戸時代の出版業界を大きく変え、現代においても大型書店のTSUTAYAの店名として名前を残し、江戸のメディア王と呼ばれるようになった蔦屋重三郎です。
蔦屋重三郎というのはどのような人物だったのでしょうか?
蔦屋重三郎の生涯と、エピソードについて解説します。

蔦屋重三郎の生涯

蔦屋重三郎は、1750年に吉原の遊郭で働いていた丸山重助と津与の間に生まれました。
幼い頃に喜多川氏の養子となって、喜多川珂理(きたがわからまる)となります。
23歳の頃に遊郭のガイドブックである吉原細見の販売権を獲得し、吉原大門の前に書店を開いたことから、出版に大きく関わり始めました。

当時の吉原細見は、鱗形屋孫兵衛の独占状態でした。
重三郎は編集者に抜擢され、参画して初めての本には発明家として有名な平賀源内が序文を執筆したことで話題となりました。

1775年には鱗形屋が出した恋川春町「金々先生栄花夢」が空前の大ヒットとなり、草双紙といわれる小説様式の1つである黄表紙が誕生します。
翌年には、吉原細見の版権を譲られて読みやすいと大ヒットを飛ばしました。

重三郎はユーザー目線での改革を行い、価格を大きく下げてランク別、値段別、場所別のガイドを発売したのです。
また、吉原細見を年2回刊行し、自社出版物を宣伝する機能も付けました。

同年、北尾重正と勝川春章の「青楼美人合姿鏡」という錦絵本を出版しています。
しかし、1777年に自身の店舗を構えた際は、錦絵の出版も一時的に辞めています。
1780年頃には鱗形屋が消滅し、重三郎は本格的に出版を始めます。

耕書堂の主人となり、売れっ子作家の黄表紙を出版し、以前から付き合いがあった狂歌師や絵師を集めて、新たな企画を生み出して多くのヒット作を出すこととなりました。
発展著しい蔦屋重三郎でしたが、1786年に田沼意次が失脚して松平定信が老中となった際に締め付けが厳しくなって今まで通りには進まなくなりました。

1792年には、出版した黄表紙の一部が摘発されて、財産の半分を過料として没収され、作者の京伝は手鎖50日の処罰を受けています。
浮世絵の美人画ブームにも乗って、相撲絵や役者絵なども扱います。

写楽の大首絵の出版、本居宣長の「手まくら」江戸売出版などを経て、草子や書物類を全国展開しようと取り組みます。
しかし、48歳になった1797年には脚気で死去しました。

蔦屋重三郎のエピソード

蔦屋重三郎は、出版の新たな仕組みを生み出した人物です。
ビジネスを拡大し、今も名前が残る多くの作家ともかかわりました。
重三郎の特徴的なエピソードは何があるか、紹介します。

30歳頃に始めた往来物と呼ばれる教育書や、流行小説の黄表紙は、製作された土地でだけ流通し、問屋が主に扱っていました。
中でも往来物は、長期的に出版ができる優秀なコンテンツであり、吉原は最先端のコンテンツを発信する地として知られるようになっています。

1781年に狂歌ブームが起こった時は、自身も蔦唐丸(つたのからまる)として狂歌を始めます。
また、出版を通じて武士や町人といった身分を超えて知が集うサロンを作っていて、喜多川歌麿や山東京伝、大田南畝、朋誠堂喜三二などが参加しています。

1783年には「万戴狂歌集」など、今までは詠み捨てだった狂歌を集めて出版しています。
狂歌本や戯作、洒落本などの大ヒット作を次々に出版して、山東京伝の洒落本、黄表紙を独占して出版しました。

また、吉原本や草双紙、洒落本などの流通網を一本化したのですが、田沼意次が失脚して松平定信が老中になったことで出版が規制され、吉原も不況になり武士作家も戯作から次々に退場していきました。
人生をかけ、出版業界を盛り上げて仕組みを改革していった人物です。

まとめ

蔦屋重三郎は、江戸で活躍した出版のプロデューサーであり、これまで狭いエリア内でだけ流通していた本がより広いエリアへと流通する仕組みを作り上げました。
また、ユーザー目線での改革も行い、より多くの人が本を手に取ることができるような工夫もされています。
多くの作者とつながって本を出版していた蔦屋重三郎は、今も大型書店に名前が残る江戸時代のメディア王と呼ぶことができるでしょう。

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