戦国時代の難しい局面を見事に乗り切った「蜂須賀家政」

歴史

戦国時代は、群雄割拠の時代から織田信長が台頭し、信長の死後は豊臣秀吉が天下統一を果たし、家康が統治するという、誰が勝つのか予測しづらい時代でした。
誰に仕えるかで家が今後栄えるか、あるいは滅びるかが決まるのですが、中でも蜂須賀家政は信長、秀吉、家康に仕えていた、数少ない武将です。
蜂須賀家政の生涯について、解説します。

蜂須賀家政の生涯

尾張国で、1558年に蜂須賀正勝の嫡男として誕生したのが、家政です。
正勝は元々斎藤道三に仕えていたのですが、後に織田信長の下で働き、豊臣秀吉の下では与力から始まり直臣にまでなっています。

家政の初陣は、13歳の時の姉川の戦いでした。
勝利を収めて、18歳になった頃には秀吉の馬廻りである「黄母衣衆」に選ばれています。
黄母衣衆は、黄色の母衣指物の着用を許された武将で、武者揃えでは名誉となります。

城攻めなどにも活躍し、重用されていました。
本能寺の変で信長が亡くなった際は、すぐ秀吉の家臣として山崎の戦、賤ケ岳の戦い、根来・雑賀の一揆に参加して武功を挙げ、褒賞として播磨国の佐用郡3千石を受領しています。

家政の正室は、生駒家長の娘である慈光院で、名前はヒメといいます。
1586年に、長男である至鎮が誕生しました。
慈光院は、1606年に享年46で病死しています。

1585年に四国攻めの武功の褒賞として、阿波国も受領しています。
しかし、実は家康は正勝に阿波国を与えるつもりでした。
しかし、正勝がそばに仕えていたいと望んだため、息子に与えたのです。

阿波国に着くと、すでにあった渭山城を家康の命で破却し、新たに徳島城を築城しました。
正勝は1586年に死去しましたが、家政は1587年には九州攻めに参陣して日向・高城攻めで武功を挙げています。

1590年の小田原征伐でも、伊豆・韮山城の戦いで先鋒を務めて武功を挙げ、朝鮮攻めにおいても、文禄の役や慶長の役の2回に参陣しています。
特に、1597年の南原城の戦いなどでは、浅野行長を助け出す功績を残しています。

しかし、家政が追撃を行わずに諸大名とともに戦線を縮小する案を上伸したことで、秀吉の怒りを買ってしまいます。
家政は日本に呼び戻されて、蟄居を命じられ蔵入地も没収されました。

豊臣秀吉の死後は、石田三成を襲撃した七将襲撃事件にも参加していました。
しかし、関ヶ原の戦いでは西軍に加わっています。
家政の意思ではなく、九州を統治していた毛利輝元が総大将となったためでした。

輝元は、西軍に参加しなければ懲罰権を行使するといい、家政は西軍に参加することを書状で諫めたため、出陣は免れました。
家政は嫡男を東軍に参加させて家督を譲り、自身は蓬庵と名乗って隠居することにしました。

関ヶ原の戦いの前に、嫡男の至鎮の正室として家康の幼女であり小笠原秀政の娘である敬台院を迎えるなど、徳川と積極的に関わっていたように、今後の天下は徳川のものと確信していたことがわかります。

嫡男を東軍に付かせたことで、蜂須賀家は今まで通り阿波国を治めることとなり、嫡男の至鎮は徳島藩の初代藩主となりました。
以降も、大坂冬の陣、夏の陣で武功を挙げ、加増されます。

しかし、至鎮は1620年に病気で享年35にて早世してしまいます。
家政は幕府から嫡孫の忠英の後見をするよう命じられ、1629年に成人するまで政務を代行して藩政の基礎を築き上げています。
1638年、享年81で家政は死去しました。

蜂須賀家政のエピソード

父の正勝とともに先見の明がある家政には、どのようなエピソードがあるのでしょうか?
実は、歴戦の武将であるにも関わらず、戦働きでの逸話はあまりないのです。
堅実な戦略で、確実に勝利していたのでしょう。

家政のエピソードで最も有名なのが、阿波踊りです。
今も続く徳島伝統の阿波踊りは、実は家政が発祥とされているのです。
とはいえ、別に家政が懇切丁寧に教えたというわけではありません。

家政は、阿波国に入った際に今まであった城を破却して、新たに徳島城を築城しました。
家政は民衆に対して、城が完成した祝いで、好きに踊るよう触れを出したことで、2日間踊って騒いでいたのが、阿波踊りの始まりという説があります。

阿波踊りは、今では日本3大盆踊りにも数えられています。
好きに踊っていたのが、江戸時代に現在の形へと変わっていったといわれています。
特徴的な掛け声などは、聞いたことがある人も多いでしょう。

戦働きとしては、朝鮮出兵にエピソードがあります。
2度目の朝鮮出兵である慶長の役では総勢14万で攻め入り、毛利秀元や小早川秀秋、宇喜多秀家、加藤清正などの高名な武将も多数含まれていました。

しかし、激しい戦いの中で浅野長政の息子である幸長を含む軍が籠城を余儀なくされてしまいます。
家政は救援部隊として、幸長を無事に救出しました。

ところが、石田三成は家政の活躍を咎めます。
余計なことをしたといわんばかりに、秀吉から預かっていた土地も取り上げられて蟄居を命じられます。

三成は戦線を縮小したかったのに、救出劇を行ったのが敵地不覚だったため、戦線を縮小する理由が無くなったことを責めているのですが、言葉足らずで家政に正確な意図が伝わるわけもありません。
三成との行き違いもあったことが、後の七将襲撃事件にもつながったのでしょう。

まとめ

蜂須賀家政は、信長と秀吉、家康に仕えた戦国武将で、特に秀吉には阿波国を与えられるなど重用されていたのですが、秀吉の死後は家康側に付くなど、バランス感覚に優れていた先見の明がある武将でした。
武功も多く、非常に優秀な人材だったことがわかります。
関ヶ原の戦いでは西軍への参陣を拒否し、自身は隠居して嫡男を東軍の下に向かわせることで戦後も領土を安堵されたのは、まさしく先を見通していたからでしょう。

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