関ケ原の戦いで命運を分けた「福島正則」

歴史

豊臣秀吉の家臣の中で武断派を代表する武将に、福島正則がいます。
数々の戦で武功をあげましたが、関ケ原の戦いでは徳川家康の味方になり、勝利に貢献します。
ですが、福島正則のその後の人生は穏やかにいきませんでした。
今回は、福島正則の生涯とエピソードをご紹介します。

福島正則の生涯

福島正則は1561年、尾張国海東郡二ツ寺村で桶屋を営んでいた福島正信の長男として生まれます。
母の松雲院が豊臣秀吉の叔母だったため、その縁から福島正則は豊臣秀吉の小姓になります。

播磨三木城で初陣を飾ると、その後の山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いなどで活躍しました。
しかし、豊臣秀吉の死後に朝鮮出兵による意見対立が起こると、家臣同士険悪な関係になってしまいます。
そして、福島正則が属する武断派が石田三成を暗殺しようとした際、徳川家康に諭されます。

諭された結果、福島正則は心を開き始め、徳川家康と親しくなるのです。
徳川家康とのこの出来事は、関ケ原の戦いに大きく影響することとなります。
東軍に属するようになった福島正則は、開戦から終結まで徳川家康と共に戦い抜いたのです。

この功績から、広島城と安芸国、備後国を賜り、大大名となります。
ですが、豊臣家を主君に立てることも忘れませんでした。
江戸幕府が開かれた後は、諸城修築に動員し、これに参加することになります。

1611年に豊臣秀頼に徳川家康と会見するよう、加藤清正と共に淀殿を説得します。
しかし、その後仲間が次々と亡くなってしまいます。
大坂の陣で豊臣秀頼から加勢を求められた際も、これを拒否しました。

そして、事件が起こります。
1619年、徳川家康の死後に、武家諸法度違反で減転封の命令を受けることになります。

これは、台風による水害で被害の被害で広島城が破壊された際に、幕府の正式な許可が出ていないにも関わらず修繕したことが原因でした。
謝罪や弁明をしたのですが、そのやり取りで徳川秀忠の怒りを買ってしまい、しかるべき処置が取られることとなったのです。
その後、家督を嫡男の福島忠勝に譲り隠居、そして出家します。

それから福島正則は、1624年に高井野で亡くなりました。
享年64歳でした。

関ケ原の戦いの功労者から一転して、波乱な人生を送ることになるとは思いもしなかったでしょう。

福島正則のエピソード

戦で活躍した福島正則ですが、彼には欠点もあります。
それは、酒癖が悪いところです。
酒癖の悪さから、失態をおかしてしまったことがあるのです。

例えば、酔った勢いで家臣に切腹を命じてしまい、号泣したエピソードがあります。
この時福島正則はかなり酔っていたそうで、切腹を命じたことを覚えていなかったのです。
これには、自分の行動をひどく後悔したことでしょう。

また、酒の席で黒田家家臣の母里友信に酒を進めて断られた際、「酒を飲み干せたなら好きな褒美をとらす」と勧めたそうです。
同時に、「黒田の武士は酒に弱く、酔ってしまうと弱く何もできない」と言い、罵られたと感じた母里友信も黙ってはいられません。

そもそも母里友信も家臣の中では有名な酒豪だったのですが、今回は使者として酒の席にいたために飲酒を断っていました。
ですが上記のようなことを言われ、家名を軽んじられたならば、福島正則の勧めに従うしかありません。
母里友信は酒を一気飲みし、言われた通り褒美を所望したのです。

この時褒美として要求したのは、福島正則の家宝の槍である「日本号」でした。
日本号は朝臣秀吉からいただいた槍であったため、福島正則は狼狽しましたが、自分から言い出した約束です。
前言撤回をすることは武士としてできなかったため、そのまま渡すことになりました。

これも酒を飲んでいた時のエピソードになりますから、とても後悔しているに違いありません。
このエピソードから日本号は、別名「呑取りの槍」とも言われています。
真っすぐな性格をしている福島正則でしたが、酒の失態が多いことも彼の人間的な魅力の1つになります。

また、戦場では恐れるものがない福島正則も、自分の妻に逃げ出したことがあるエピソードもあります。
女性問題に悩んでいた妻の昌泉院が嫉妬に狂ってしまい、福島正則は薙刀で斬りつけられてしまったのです。
斬りつけられた原因は福島正則にありますが、昌泉院が行動に移してしまう気持ちにも共感できます。

福島正則は恐妻家だったと言われていますが、その様子がこのエピソードから容易に想像できるでしょう。

徳川政権下においてトラブルが続いた福島正則は、加藤清正と同様に豊臣家を完全に見放したわけではありません。
徳川家康と関わり、人柄に惚れたことで立ち位置を変えたのです。
色々と後悔してしまうエピソードを持っていますが、仕える相手に関しての後悔はしていないでしょう。

豊臣家の家臣の中でも、臨機応変に対応できる武将だったのです。

まとめ

今回は、福島正則の生涯とエピソードをご紹介しました。
福島正則は豊臣家家臣として、数々の戦に参加し活躍しますが、朝鮮出兵において文治派と対立します。
石田三成の暗殺事件をきっかけに徳川家康と親しくなり、関ケ原の戦いでは東軍に属し戦い抜きました。
武将として勇猛果敢な姿がある一方で、酒癖が悪かったり、恐妻家だったりと意外な一面を持っている人物でもあります。

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