不器用で無骨な武士「柴田勝家」

歴史

柴田勝家は、織田信長の筆頭家老として有名な戦国武将です。
「鬼柴田」という異名を持つ猛将であり、59歳まで独身だったのですが60歳になってからお市の方の再婚相手となりました。
豊臣秀吉の好敵手ともいわれていた柴田勝家の生涯とは、どのようなものだったのでしょうか?

柴田勝家の生涯

柴田勝家は、尾張国愛知郡上社村、現在の愛知県名古屋市名東区で生まれました。
生まれ年は1522年と言われていますが、それ以外に1526年、1527年といった説もあり、明確にはされていません。

若い頃は織田信長の父である織田信秀の家臣であり、下社村を領していたとされています。
織田信長が家督を継承したころには、既に織田家の重鎮となっていました。

そして、信秀が死去した際は信長の弟である信勝の家老となりました。
1552年に起こった萱津の戦いでは、清洲城主の織田信勝との戦いで中条家忠と共に敵方の家老である坂井甚介を打ち取って、その翌年には清州情攻めの大将格として30騎を打ち取る武功を立てました。

一度は後継者を信長ではなく信勝にしようと戦を起こしたものの、敗れて降伏します。
その後、信勝に見切りをつけた勝家は信長に謀反の計画を密告し、信勝は信長におびき寄せられて倒されることとなりました。

信長に仕えることとなった勝家ですが、これまで信勝に仕えていたこともあって尾張統一選や桶狭間の戦い、美濃斎藤攻めなどでは用いられませんでした。
重用されるようになったのは、1568年の上洛作戦からとなっています。

それ以降は、織田軍の4人の先方として参戦するようになり、武功を挙げていきます。
その後は京都の軍政を担当し、一度は信長と共に岐阜へと引き上げたのですが、1569年に三好三人衆によって本圀寺の変が起こると信長とともに再び来京しました。

それからも信長軍の先方として多くの戦いで活躍した勝家は、時に負傷しながらも長年最前線へと立ち続けました。
1576年には北陸方面指令軍に任命され、加賀国を平定するよう命じられます。

1580年に信長と本願寺が講和を結ぶと、北陸方面は活発化していきます。
勝家は一向一揆の司令塔であった金沢御堂を攻め滅ぼして一向一揆を制圧していき、1580年にはとうとう加賀を制圧して織田家の筆頭家老となりました。

1582年に上杉方の魚津城・松倉城を攻囲していた時に本能寺の変によって信長が横死したものの、それを知らないままに城攻めを続けて翌日には魚津城を陥落させます。
その後事件を知り、慌てて全軍引き返しています。

その後の清須会議で織田氏の後継者問題を話し合ったのですが、秀吉への対抗馬として信長の三男である織田信孝を推したものの、光秀を売ったことで発言力が増した秀吉の推す、嫡孫の三法師(後の織田秀信)を擁立し、家督を継ぐことになりました。

また、この会議では勝家が信長の妹であるお市の方と結婚することが決まりました。
そして、秀吉が勢力を増したことで勝家を始めとする織田家重臣との権力抗争が始まります。

勝家は滝川一益や織田信孝と手を結び、秀吉に対抗していきます。
賤ケ岳の戦いと呼ばれる戦で勝家は秀吉に敗れてしまい、北ノ庄城で妻のお市や80余人の家臣と共に自害することとなりました。
享年62歳で、昭和3年に宮内省より従三位が贈られています。

柴田勝家のエピソード

柴田勝家には、「かかれ柴田」という異名もあります。
これは、戦場で「かかれー!」と大声で味方を鼓舞してきたことから名づけられたと言われているように、勇猛果敢な将として知られているのです。

秀吉とはかなり仲が悪かったと言われているのですが、それを証明するエピソードもあります。
秀吉は勝家と口論になって、戦線を離脱してしまったことがあるのです。

当時、殊勲の命令は絶対であり、背いた場合は処刑されてもおかしくありません。
そんな中、秀吉は北陸で苦戦する勝家を救援するよう命じられたのですが、策戦において勝家と対立したことで、戦線を離脱したのです。

これによって軍の足並みは乱れ、勝家が七尾城の救援に向かうものの間に合わずに陥落してしまい退却することとなったのですが、その時は勝家側が千人余りも打ち取られてしまったといわれています。
このことも、後々まで続く対立を決定づけた一因でしょう。

また、勝家は「瓶割り柴田」とも呼ばれています。
長光寺城が六角義賢に包囲された際、持久戦となり場内の水が減った時、勝家は兵に水をたくさん飲むよう命じます。

そして、飲み終わったところで水瓶を槍で叩き割ったのです。
「城に籠っていても生きる道はない!敵を蹴散らすぞ!」と鼓舞して、城から出撃して六角軍に突撃し、見事撃退したのです。

また、前田利家は勝家のことを親父殿と呼んで慕っていたものの、賤ケ岳の戦いでは府中城に籠って動きませんでした。
勝家はそのまま秀吉に敗れてしまったのですが、退却する途中で府中城の利家を訪ねます。

そして裏切った理由などは聞かず、これまでの働きに感謝していると伝えます。
湯漬けをいっぱいもらうと、黙って聞いている利家に「秀吉とは友達なんだから、降参して家来にしてもらえ」とだけ告げて帰り、預かっていた利家の娘も返してから自決したのです。

多くの戦いで活躍し、勇猛果敢だったことで知られる勝家ですが、戦略や時機を見極める目、人心掌握術にもたけていました。
さらに、人情にも篤いことが分かります。

まとめ

柴田勝家は、織田信長の重臣として使えていましたが、はじめは弟に使えて信長とは敵対していたなど、決して生え抜きの家臣というわけではなかったのです。
時機を見極めて主君を変えた勝家の優秀さと共に、人を見極めて重用した信長の懐の広さも分かります。
最後は秀吉に負けてしまいましたが、信長を支えて次の時代を作り上げた立役者の一人と言えるでしょう。

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