清少納言の父「藤原道隆」

歴史

藤原道隆は平安時代の公卿であり、一条天皇の皇后であった定子の父です。
また、清少納言が枕草子を書くきっかけを作ったため、清少納言の父とも呼ばれています。
藤原野道隆は、どのような人物だったのでしょうか?
その生涯と、特徴的なエピソードを紹介します。

藤原道隆の生涯

藤原道隆は、953年に藤原北家、摂政・関白・太政大臣の藤原兼家の長男として生まれました。
兄弟姉妹には、道綱、道兼、道義、道長、兼俊、超子、詮子、綏子などがいます。

父の兼家は、道隆の妹の詮子を円融天皇の女御として送り込み、詮子は後に一条天皇となる懐仁親王を出産しました。
また、同じく妹の超子は冷泉上皇の女御となって後の三条天皇を産んでいます。

984年に円融天皇から花山天皇に譲位された際、道隆は従三位に叙せられます。
懐仁親王は東宮となり、道隆はその春宮権大夫に任じられます。
花山天皇の外戚であった義懐を脅威に思った兼家は、孫の懐仁親王がなるべく早く即位することを望んでいました。

986年に、寵姫を失って落胆していた花山天皇に対して、三男の道兼にそそのかせて内裏から寺へと連れていき、出家させるという策を兼家が講じ、半ばだますようにして成功します。

天皇が消えたことで、宮中は大騒ぎになってしまいます。
その隙に道隆は弟の道綱と協力して、神璽宝剣を東宮御所へと運び込みます。
そして、懐仁親王が速やかに一条天皇として即位することに成功したのです。

金親は摂政となり、道隆は正三位権中納言から従二位大納言へと一気に引き上げられ、989年には内大臣を拝します。
しかし、道隆はこれ以上の官位を望まず、987年に従一位へと昇叙される際は、嫡男の正五位下叙爵のために譲っています。

990年に、道隆の長女の貞子を一条天皇の女御に入内させ、兼家が病気で関白を辞すると道隆が関白になり、次いで摂政にも就きました。
同年に兼家が死去し、道隆が後継となります。

帝の外舅となった道隆は、定子を中宮にします。
991年には内大臣の官を辞して道兼に譲ったのですが、993年には再び関白となります。
995年に次女の原子を皇太子である居貞親王の后として、後宮政策の強化を図りました。

しかし、それからほどなくして道隆は病に伏し、995年には一条天皇に願い出て嫡子の内大臣である伊周を内覧として政府を委任し、後継者にしようとします。
しかし、認められたのは病気の間だけの内覧だけで、関白の位を譲ることは認められませんでした。

死の直前には関白を辞して再び譲ることを奏上したものの、やはり認められませんでした。
その3日後には出家し、それから4日後に享年43で亡くなりました。

当時は疫病が流行していて多くの貴族の命を奪ったのですが、道隆の死因はそれとは異なり、酒の飲みすぎによる糖尿病、当時は飲水病と言われていたものが悪化したため、とみられています。

藤原道隆のエピソード

藤原道隆は、どのような人物だったのでしょうか?
また、なぜ清少納言の父と言われているのでしょうか?
その人物像がわかる、エピソードをいくつか紹介します。

藤原道隆には、ライバルがいました。
それは、自身の弟である三男の道兼、そして13歳年下の五男の道長です。
兼家が死去した際は、この3人のうち誰が後継となるのか、兼家が生前に腹心の在国と平惟仲、多米国平と話し合っていました。

在国が推したのは道兼でしたが、惟仲と国平は嫡庶の序を重視して長男である道隆を推しました。
そして後継が道隆に決まった際にその話を聞いて在国を憎み、関白職に就いた際に在国親子の官を奪っています。

道長は直接争うことはなかったものの、道隆が死亡した後で道兼が関白となり、すぐに没したため藤原氏長者の地位が転がり込んでいます。
しかし、道長やその嫡子は、道隆の怨霊を恐れて調伏の祈念などを行っています。

道隆が枕草子の作者である清少納言の父と言われているのは、その枕草子を書くきっかけとなった紙を贈ったのが道隆だったからです。
しかし、道隆は清少納言に送ったのではなく、娘の定子に送ったのでした。

当時の紙は非常に貴重なものだったのでめったに手にすることができず、清少納言は定子に「上等な紙や敷物を見ると気が晴れる」と常々語っていました。
そんな中、清少納言が宮廷から去る事件があったのです。

道長が関白になった翌年、定子の兄が道長に陥れられて流刑になってしまったのですが、その際に清少納言が道長のスパイだという噂を流されたのです。
定子を敬愛する清少納言はそれを悲しみ、自宅に引きこもってしまいました。

定子は清少納言がそばにいれば明るく振舞って皆を元気づけてくれるため、それに励まされていたのです。
そのため、清少納言に戻ってきてほしいと思い、20枚の紙と敷物を贈りました。

この紙を定子に送ったのが、道隆とも兄だともいわれています。
そして、清少納言はせっかくの紙なので、そこに宮廷生活の様子を書き記そうと思ったのです。
それが、後世まで伝わる枕草子です。

まとめ

藤原道隆は、藤原家の例にもれず娘を天皇の皇后とし、外戚として力をふるっていました。
しかし、生活習慣がたたって糖尿病で早死にしてしまったのです。
娘は女流作家の清少納言に支えられながら宮廷でライバルの彰子と戦ってきたものの、出産時に死亡してしまいます。
それでも、道隆の人生は栄華を極めた幸せな人生だったでしょう。

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