徳川家康の家臣の中には、親子で仕えている武士も珍しくありません。
鳥居元忠も、その一人です。
関ケ原の戦いで捨て石となった背景には、徳川家康との強い信頼関係があったことが分かっています。
ここでは、忠臣の姿から三河武士の鑑と呼ばれた鳥居元忠の生涯とエピソードをご紹介しましょう。
鳥居元忠の生涯
鳥居元忠は、1539年三河国碧海郡渡郷で松平家家臣であった鳥居忠吉の三男として生まれます。
幼名は鶴之助で、徳川家康が今川家の人質だった時からの側近として活躍し、1551年から傍に仕えています。
1555年、徳川家康が元服した際に、3つ年上の鳥居元忠も一緒に元服したのでないかと考えられています。
その後は徳川家康と共に、戦で活躍していきます。
1570年の姉川の戦いや、1572年の三方ヶ原の戦いに参戦します。
1575年の長篠の戦いでは、同じく家臣の石川数正と共に馬防柵を設置したことが分かっています。
そして、三男でありながらも、1572年に父の鳥居忠吉が亡くなった後は家督を継ぐことになりました。
この時、すでに長兄は戦死しており、次兄も出家していたことから、順番からすると鳥居元忠が家督を継ぐことになっていたのです。
1582年の天正壬午の乱では、徳川家康の背後を狙った北条氏忠と氏勝軍の別動隊を撃退し、討ち取った成果を残しました。
1585年の真田昌幸の討伐を目的とした上田合戦で撃退されたものの参加し、1590年の小田原征伐にも参加します。
1600年に徳川家康が会津征伐を行った際には、伏見城を預けられました。
徳川家康の留守を狙って五奉行や石田三成が挙兵し、鳥居元忠が奮闘した伏見城の戦いでは、わずか1800人の兵を率いて城に立て籠り戦い続けます。
石田三成から使者が派遣されましたが、玉砕を覚悟で斬殺します。
約13日戦い続けましたが、8月1日、鈴木重朝と一騎打ちの末に鳥居元忠は討死しました。
この時、鳥居元忠は62歳で生涯を閉じました。
主君への忠義を守ろうとする気持ちは、今でも多くの人の心を打っています。
同じく徳川家康に仕えていた大久保忠教から三河武士の鑑として称され、伏見城の血天井は京都市の養源院を始めとする寺院に伝えられています。
鳥居元忠のエピソード
鳥居元忠の有名なエピソードは、やはり伏見城を守り討死したことです。
徳川家康は伏見城が捨て城になることを予測していたため、捨て石となる人材を選ぶという苦渋の決断をせざるを得ませんでした。
いくら戦略的な意図があり理解したとしても、自ら死に行くのを喜ぶ家臣はいないでしょう。
鳥居元忠は、徳川家康の意図を理解した上で、伏見城で孤軍奮闘したそうです。
徳川家康は伏見城を離れる前、城内で最後の宴会を行い、別れの酒を飲みました。
そこで鳥居元忠に、少ない戦力しか残せないことや、子ども時代の思い出話に花を咲かせながら、最後の時間を過ごしたのです。
人質時代から一緒にいた存在を亡くなってしまうことが分かっている場所に残していくのは、いくら優秀な武将であった徳川家康でも辛いものです。
実際に別れの杯を交わした後、鳥居元忠にすまないと涙ながら手をつき、謝罪していました。
それを鳥居元忠達は、黙ってひれ伏し見送ったというエピソードが残っています。
そして、徳川家康に対する忠義は、自身の書いた遺書からも現れています。
鳥居元忠は、伏見城の戦いの前に息子の鳥居忠政に遺書を書いています。
伏見城に立てこもる決断は武士として当然であること、主君への忠義に対し異心がないことが、遺書に書かれていました。
遺言の中からも、徳川家康への忠義に厚く、真っすぐであることが分かります。
加えて、徳川家康に恩義を感じているため、絶対に忘れるべきでないとし、息子たちが成人した後も徳川家康に仕えるようにと書かれていたのです。
武将の中には、様々な事情から主君を変えてきた人物がいました。
親が失態を犯した際、子は許され仕えることが認められたり、他の武将の下へ就いたりすることも珍しくありません。
鳥居家自体が松平家の時代から長く仕えており、徳川家康と親交もあったことから、一族が最後まで徳川家に仕えてほしいと考えたのでしょう。
徳川家康の下には、各分野に秀でた優秀な武将が集まっていました。
それは、織田信長や豊臣秀吉が羨ましがるくらいです。
特に徳川家康が涙しながら別れを惜しんだ武将ですから、お互いに強い信頼関係があったはずです。
自分のために命を懸けてくれた家臣がいたからこそ、徳川家康は天下統一を果たせたのかもしれません。
鳥居家は親子2代で徳川家康をサポートしてきましたが、父も子も徳川家康のために力を尽くしてくれました。
その姿を見て、徳川家康は奮起しないはずがありません。
2人とも江戸幕府が開かれてから、太平の世を見ることはありませんでしたが、きっと嬉しく思っていることでしょう。
家臣との信頼関係の結果、天下を手に入れたと言っても過言ではありません。
まとめ
ここでは、鳥居元忠の生涯とエピソードをご紹介しました。
鳥居元忠は鳥居忠吉の子で、徳川家康の幼少期から仕えており、伏見城の戦いまで徳川家康のために尽くした人物だと言えます。
伏見城の戦いの前には主君の意図を酌んで、捨て石となることに文句を言わず、最期まで使命を全うしました。
徳川家康との関係性は、涙なしには語れないエピソードになること間違いありません。