槍の名手であったのは、本多忠勝だけではありません。
叔父の本多忠真も、戦国の世にあった多くの戦を槍で活躍した人物になるのです。
そして、同じ徳川家康の家臣として、本多忠真も主君に尽くして最期を迎えました。
ここでは、本多忠真の生涯とエピソードについてご紹介しましょう。
本多忠真の生涯
本多忠真は、三河国額田郡蔵前で本多忠豊の次男として生まれました。
生年は、1531年、または1534年でないかと説があります。
次男として生まれた本多忠真は、本来なら跡継ぎと無関係の人生を送るはずでした。
しかし、1545年に父の本多忠豊が、1549年に兄の本多忠高が討死してしまい、当主が不在になる事態に陥ったのです。
10年にわたる「安城合戦」で、親族を失ってしまいます。
そこで本多忠真は、次の当主となる幼い本多忠勝と兄嫁を保護し、後見人を務めることになりました。
本多忠勝が一人前になるまで、サポート役に徹することにしたのです。
ここからは、本多忠勝と共に行動するようになります。
1560年の桶狭間の戦いの前哨戦では、初陣の本多忠勝を補佐し、戦に望みます。
この時、織田側の武将であった山崎多十郎に討ち取られそうにあったところを、本多忠真は槍を投げて助けたそうです。
まさに、急死に一生を得る出来事でした。
ここで助けが上手くいかなければ、本多忠真は再び当主を失うことになりかねません。
また本多忠真にとって大切な甥ですから、命を落とすことがないよう、緊張状態で臨んだ戦だったことでしょう。
また、1561年に起こった水野信元との戦いでも戦功をあげます。
1563年の三河一向一揆では、徳川家康の側につき、岡崎城に赴きました。
1572年の三方ヶ原の戦いでも、これまでの戦いと同様に本多忠勝に迫る敵を、槍を投げ助けていました。
ところが、徳川家康が武田信玄に敗けてしまい、敗走せざるを得ない状況に陥ります。
そんな中、退却の際に殿を買って出たのが本多忠真です。
旗指物を左右に突き刺して追走する武田軍に斬り込み、徳川家康の軍の最後尾を命懸けで守り抜きました。
この時、「ここから後へは、一歩も退かぬ」と言い突撃したそうです。
40歳前後というまだまだ活躍が期待できる年齢で、本多忠真は生涯を閉じました。
話は変わり、本多忠真が最後尾を守っていた頃、嫡男の菊丸は父の命で徳川家康を守り、浜松城への退却を成功させていました。
主君を無事に逃がせたことには、本多忠真も安心したでしょう。
その後、本多忠真を三河に弔ったのち、自身は出家したそうです。
嫡男も父の思いを果たした形になりますから、亡くなった後も違う世で安心したことでしょう。
本多忠真のエピソード
本多忠真のエピソードには、甥の本多忠勝を引き取った後、教育を徹底して行ったことが挙げられます。
本多忠勝が引き取られたのはわずか2歳ほどでしたが、そこから立派な当主となるよう、読み書きや武士の心得などを教えました。
武芸は本多忠真自身も得意としていた槍の使い方を教え、武将としての土台を作っていったのです。
このような行動は、本多忠勝にとって父親のように感じられたはずです。
そのため、叔父と甥の関係を超えた絆で結ばれていました。
そして最期は、殿を務めたことで亡くなりますが、ここで本多忠真の父とのある共通点があります。
本多忠豊も味方を逃がすため、殿を務めて亡くなっています。
偶然にも、親子の死因が同じだったのです。
とはいえ、本多忠豊と本多忠真の「殿を務めての討死」の意味は、同じものではありません。
本多忠豊の時は、とにかく主君を守るということで殿を務めたことでしょう。
ですが、本多忠真の時は少し状況が違います。
本多忠豊が存命の頃の松平家は、他の大名に支配されるなど弱い立場に置かれていました。
けれども本多忠真の時は徳川家康が徐々に力をつけており、今までのような弱い立場から脱却している状況です。
もしかすると、これまでの状況が一変し、他国を支配することが家臣の中でも想像できたかもしれません。
そうなると、徳川家康が命を落とすことだけは、絶対に避けなければならないのです。
未来を見据えた上での殿を務めたと、考えることもできます。
主君を守るための行動には、父の時代とは違った意味合いが込められていたと考えると、重みが違ってきます。
それに加え、甥の本多忠勝が立派に成長したことも、殿を買って出た理由の1つになるでしょう。
仮に自分が亡くなったとしても、代わりに主君を守る存在がいるとなれば、安心して任せられます。
実際に本多忠真は、戦場において甥の成長を傍で確認していますから、心配事なく最期まで戦えたはずです。
よって、次世代に託した行動だと表現するのが適切になります。
本多忠勝だけでなく、徳川家康やその家臣に希望を託した本多忠真の人生は、苦しいことばかりでなかったことでしょう。
まとめ
ここでは、本多忠真の生涯とエピソードをご紹介しました。
本多忠真は、兄の亡き後甥の本多忠勝を保護し、立派な当主となってもらうべく教育を徹底します。
その甲斐もあり、本多忠勝は立派な武将に成長し、その後徳川家康に貢献したのは誰もが知っている通りです。
本多忠真の最期は、父と同じく殿を務めての討死でしたが、徳川家康に将来を託した上での死であったことに違いありません。