藤原為時は、漢文を勉強していた紫式部に対し、男に生まれなくて残念だと言い放ったことで有名です。
紫式部の人生に影響を与えた人物とも言えますが、藤原為時も平安時代に活躍した人物の1人になります。
しかしながら、その人生は苦難が多かったとされています。
今回は、藤原為時の生涯とエピソードをご紹介します。
藤原為時の生涯
藤原為時は、平安時代中期に活躍した人物で、949年頃生まれました。
家は藤原北家良門流であり、中納言の藤原兼輔の孫である刑部大輔、藤原雅正の3男になります。
藤原北家良門流は、有名な藤原道長のいる本流の家と異なりますが、家系図から見ると親戚関係にあります。
一条天皇の時代に、藤原為時は歌人、漢詩人として活躍していました。
歌人や漢詩人として活躍したという通り、大学寮では中国史を教えていた学科「紀伝道」に属し、菅原文時に師事していました。
余談ですが菅原文時は、なんと菅原道真の孫にあたります。
学識のある人物から教えを受けられるくらいだったので、学生時代も優秀な人物の1人として数えられていたはずです。
このように和歌、漢詩に精通していたことから、藤原為時は花山天皇の教育係を任されます。
そして、藤原為時の才能は、紫式部にも受け継がれることになったのは言うまでもありません。
とはいえ、平安貴族の中でも藤原為時は中流に位置していたため、出世の道が中々開けず、歯がゆい思いをしたことでしょう。
政治の世界で活躍するには、才能があることに加え、家柄が良いことも求められます。
実際に才能に恵まれていた人でも家柄の面で出世が上手くいかなかったことは、平安時代において珍しくありません。
984年に教え子の花山天皇が即位すると、官吏の養成などを行う式部丞、天皇の秘書的役割を果たす六位蔵人に任じられますが、そこで長く働くことをしませんでした。
986年に花山天皇が退位した際に、自分も官職を辞職したのです。
その後、一条天皇の時代になると、藤原為時は現在の福井県知事にあたる越前守に任ぜられると、紫式部も同行し京都を離れます。
1011年に越後守になりますが、任期1年前に帰京し、それから1016年に出家しました。
1018年には、藤原頼道邸の屏の料に詩を献じたそうですが、これ以外の消息は分かっていません。
任期を1年残して帰京したのは、一説によると紫式部が亡くなったからでないかと言われています。
その前には息子の藤原惟規も亡くなっており、もしかすると子どもたちに先立たれ、淋しくなったのかもしれません。
有名貴族のように華やかな京都での生活に恵まれなかった藤原為時の没年は、1029年頃でないかと考えられています。
藤原為時のエピソード
藤原為時には、漢詩の才能で活躍したエピソードがあります。
宋の商人が若狭や越前に留まる事件が発生した際に、交渉役として選ばれたのが藤原為時です。
漢詩の才能があり、中国の歴史にも精通していることから、事件の解決を頼まれたのでしょう。
このような役回りは、一介の役人にはできません。
あまり都での出世に恵まれませんでしたが、能力に関しての評価はきちんとなされていたはずです。
そうでなければ、このような大役を任せることはなかったでしょう。
また、『今昔物語集』の中に次のようなエピソードがあります。
越前守の人事には時の関白、藤原道長が力を尽くしたとされていますが、朝廷に捧げた漢詩が大きな影響を及ぼしているのです。
藤原為時が捧げたのは、以下の内容になります。
苦学寒夜紅涙霑襟
除目後朝蒼天在眼
苦学したのに希望の位が与えられないため、血のような涙を流しています。
人事の翌朝は、青々とした天が目にしみます。
簡単に言うと、希望の位に就けなかった無念さを、漢詩で表現したのです。
この漢詩を捧げた時、藤原為時は50歳くらいだったそうで、漢詩の内容に加え年齢的な要素もあり、より落胆さ、悲哀さが伝わったのでしょう。
これには藤原道長も、当時の天皇であった一条天皇も心情を感じ取り、人事の変更を行ったそうです。
時の関白と天皇の心を動かすほどの漢詩と考えると、うだつの上がらない貴族という評価は好ましくありません。
やはり地位と本人の才能が比例していない、と考えることもできます。
そして実際の評価とは異なるところがあるかもしれませんが、1つだけ確実に言えることがあります。
それは、親子で平安時代の文学に貢献していることです。
『源氏物語』を書いた紫式部、歌人の藤原惟規、漢詩人の藤原為時。
個人でなく、文学で功績を残している「家族」は、そう多くありません。
政治の世界で活躍した貴族というより、文化人として活躍したと言った方が正しいでしょう。
平安時代の様子が分かる、有名な一家と言ってもいいくらいです。
藤原為時一家を通して、平安時代の様子を覗いてみませんか?
まとめ
今回は、藤原為時の生涯とエピソードについてご紹介しました。
藤原為時は漢詩の才能に恵まれており、中流貴族に位置していたものの、他国との交渉を務めるほど優れた人物でした。
藤原道長や一条天皇の心を動かした漢詩も有名で、思うように出世ができなかったのは悔やまれてなりません。
親子で平安時代の文学に貢献していたことは、現代でも評価され続けています。