平安時代における藤原北家の影響力が増したのは、藤原道隆、道長兄弟の活躍によるものです。
彼らの活躍を、当時の人々は予想することができたのでしょうか?
それを見抜き、行動に移していたのが穆子です。
今回は、一族繁栄の鍵となる穆子の生涯とエピソードについてご紹介します。
穆子の生涯
穆子は、931年に歌人として有名な中納言藤原朝忠の娘として生まれました。
そして、左大臣源雅信と結婚し正室となり、藤原道長の正室となる倫子や藤原道綱の正室になる子どもを儲けました。
993年に源雅信が亡くなった後出家し、「一条尼」と呼ばれるようになります。
その後、倫子の夫である藤原道長が昇進し、穆子にとって孫にあたる藤原彰子も一条天皇の中宮となり入内することになります。
家がどんどん栄えていく様子を、夫亡き後に目の当たりにします。
その影響もあり、1001年に穆子の70歳の加持祈祷である七十算の修法は、藤原道長夫妻が主催で大規模に行ったそうです。
晩年は東山にある観音寺に籠るようになりますが、1016年にまた良い出来事が穆子の耳に入ってきました。
それは、曾孫にあたる後一条天皇の即位です。
喜ばしい出来事があった反面、穆子の病状は悪化してしまいます。
藤原道長夫妻はこの時穆子の看病にあたりましたが、病状は良くなりませんでした。
それから穆子は、86歳で生涯を閉じました。
まさに藤原北家の権勢を体感した人物と言えます。
穆子のエピソード
穆子には、娘の倫子を藤原道長に嫁がせる判断をしたという有名なエピソードが残っています。
本来、倫子は藤原道長でなく、一条天皇に嫁がせようと夫の源雅信は考えていました。
天皇の后になれることは、一族としても誇り高いことですし、平安貴族といっても誰でもなれるわけではありません。
そんな風に考えている時、藤原道長から倫子に求婚の話が舞い込んできたのです。
時の天皇と一貴族、どちらに嫁いだら幸せになるのでしょう。
源雅信はこの状況を穆子に相談すると、次のように答えたそうです。
それは、藤原道長に嫁がせるべきという答えでした。
なぜなら、一条天皇と倫子では年齢的に釣り合いが取れないからです。
藤原道長とも年齢差は2歳ほどありましたが、釣り合いが取れる範囲であること、さらに昇進の可能性があることに賭けたのです。
藤原兼家の息子ということで、世間での評判や噂をもしかすると耳にしていたかもしれません。
それでも、この判断はとても難しいことだったでしょう。
源雅信の意見に反対した後、強引な形であれよという間に藤原道長との結婚が決まりました。
これには、源雅信だけでなく、藤原道長の父の藤原兼家も非常に驚いたそうです。
娘の結婚に対し、不安の声があったことも予想できます。
しかしながら、穆子の先見の明は見事に的中しました。
このような経緯もあり、藤原道長は穆子に対し、頭が上がらなかったそうです。
一方で、源雅信が藤原道長を結婚相手として賛成しなかった理由には、長男でなかったことが挙げられます。
平安時代に限らず、家を継ぐ立場になるのは長男がほとんどで、次男や三男といったそれ以外の兄弟は目立つような存在ではありません。
藤原道長も、何もなければ一般的な平安貴族として平凡な人生を送っていたことでしょう。
ですが、藤原道長の人生を振り返ると、本人の才能に加え、他の兄弟が病死してしまう偶然から、活躍のチャンスに恵まれます。
もしかすると穆子は、藤原道長の運の良さも見抜いていたかもしれません。
その結果は、明らかです。
藤原道長も結婚を申し込んだ時は自分の将来について、予想していなかったはずです。
それを見抜いて結婚の許しをもらえたことは、藤原道長にとっても驚いた出来事だったでしょう。
となると、穆子に恩義があるのは当然のことなのです。
そして、藤原道長の妻となった倫子には、彰子と三条天皇の中宮となる妍子が生まれます。
藤原道長にとって、摂関政治を確立できる状況が整っていったのですから、穆子の七十算の修法の主催をする際、率先して準備など行っていた様子が想像できるでしょう。
また、穆子が亡くなるまで看病していたことも、恩返しとして行っていたと考えると納得できます。
もし、穆子が藤原道長の結婚の申し出を断っていたらどうでしょう。
出世した藤原道長が家族になることなく、孫が入内するような出来事も体験しなかったはずです。
仮に源雅信の意見を優先し、一条天皇の中宮として倫子を送り出したとしても、豊かな人生が送れるとは限りません。
女性同士の争いごとに巻き込まれ、倫子が不幸になってしまうこともあり得ます。
源雅信が予想した人生とは違うかもしれませんが、穆子の判断で倫子が幸せな人生を送れたと考えることもできませんか?
親の視点から良い結婚とは何か、幸せの考え方について、穆子のエピソードから知ることができます。
まとめ
今回は、穆子の生涯とエピソードをご紹介しました。
藤原道長と倫子が結婚できたのは、穆子のおかげと言っても過言ではありません。
源雅信の意見に賛成していたなら、一族の人生が大きく変わっていたことは間違いないでしょう。
穆子のエピソードを通して、結婚に対する平安貴族の親の考え方の1つを知ることができるはずです。