一条天皇の時代には、四納言と呼ばれる4人の公卿がいました。
その中の1人である藤原斉信は、振る舞いが高貴で、当代随一の文化人としての名声が高かったそうです。
また、政治権力が大きく変わる中、上手く立ち回って地位を築いてきました。
ここでは、藤原斉信の生涯とエピソードについてお話しします。
藤原斉信の生涯
藤原斉信は、藤原北家、太政大臣・藤原為光と藤原敦敏の娘の次男として生まれます。
981年の円融朝で従五位下に叙爵してから、花山朝、一条朝にかけて武官を務めながら昇進していきます。
順調に昇進をしていく中、992年の蔵人頭の後任選定において、位的にも自分が相応しいと思っていたところ選ばれることがありませんでした。
他の人物が蔵人頭に補せられたと聞き、昇進を期待していた藤原斉信は赤面で退朝したそうです。
994年に蔵人頭になると、仕事として中宮定子のサロンに近しく出入りすることになります。
しかし、藤原道隆が薨じた後は、次に権力を握ることとなった藤原道長に接近していきます。
その裏付けとして、藤原伊周と隆家兄弟が左遷された翌日に、藤原斉信は参議に任ぜられており、もしかすると政界の情勢を敏感に察知していたのかもしれません。
それからは、藤原道長の腹心の1人として、一条天皇を支えていきます。
1001年には権中納言、1009年には権大納言に昇進し、なんと藤原公任を超えてしまいます。
1020年に大納言に昇進すると、太政官4位の席次を占めます。
しかし、その後は他者に昇進を先んじられるなど、再度苦い思いをすることとなりました。
1021年以降には藤原斉信本人が大臣への昇進を望んでいたのですが、その思いと同時に昇進のために自身の子どもに祈祷させているなどの噂が出てしまいます。
さらに関白の藤原頼道が一時重態となったため、藤原斉信との関連性が取り沙汰されました。
結果として、藤原斉信は大臣への昇進を望んだものの、都合よく行きませんでした。
1035年に、藤原斉信は69歳で薨じました。
念願の大臣職に任じられなかった理由は、右大臣藤原実資、左大臣藤原頼道、内大臣藤原教通の3人体制が長く続いたからです。
特に藤原実資は90歳近くまで仕事をしていたため、藤原斉信が大臣になるチャンスを掴めなかったと言っても過言ではありません。
この願いが存命中に叶わなかったことは、藤原斉信も残念に思っていたことでしょう。
藤原斉信のエピソード
藤原斉信は歌人として和歌を嗜んでいただけでなく、漢詩や朗詠、管絃にも通じている文化人でした。
さらに美男子で、女官たちの人気が高かったそうです。
そんな藤原斉信がより分かるエピソードとして、『枕草子』に記載されている清少納言とのあるやり取りが挙げられます。
「故殿の御ために、月ごとの十日」の段では、清少納言と次のように会話したそうです。
清少納言を呼び出した藤原斉信が、「どうして親しく付き合ってくれないのか」と、恋愛関係を望むような発言をしたのです。
それに対し清少納言は、「親しくなることは決してないが、仮にそうなったら褒めることができないのが残念だ」と返したそうです。
要するに、親愛的な意味で付き合うのは構わないが、恋愛的な意味はないと言われてしまったのです。
それを恋人同士になったら褒められないという表現で伝えたことに、藤原斉信も一本取られたでしょう。
上記のエピソードの他にも藤原斉信は枕草子に登場しており、清少納言と関係があったことが分かっています。
清少納言からすると、高貴な人と渡り合えていることのアピールの一環にされている藤原斉信ですが、不和でなかったことは明らかです。
また、藤原斉信は政治の時流を読むことに成功した人物でもあります。
藤原道長が政治の実権を握った際には接近し、最終的に四納言の1人として活躍しました。
そして藤原道長が開催した詩会では常連にあたり、長時間作詩に没頭していたそうです。
そのため、貴族の中からは藤原道長の派閥の人間だと見られていたはずです。
その様子は、藤原実資の批評でよく分かります。
藤原実資は藤原斉信の藤原道長への忠勤ぶりを、「恪勤の上達部」などと批判していたようです。
分かりやすく言い換えると、藤原道長に対し「真面目に職務に励んでいる公卿」だと表現したのです。
藤原斉信が仕事をサボっているわけではありませんが、そのように見えてしまうくらい藤原道長の詩会に熱心に通っていたのでしょう。
藤原斉信自身も昇進を望んでいたことから、もしかすると様々な人との交流は戦略的に行っていたかもしれません。
その証拠は、時の権力者やその周囲の人々と交流していたことにあります。
枕草子では艶やかな振る舞いが多く記載されていましたが、その裏には本人なりの努力があったことでしょう。
まとめ
ここでは、藤原斉信の生涯とエピソードについてお話ししました。
枕草子でも美男子として記されていた藤原斉信は、清少納言と繋がりがあり、多くのエピソードを残しています。
他方で、藤原道長に接近すると、詩会に積極的に通うなど忠勤と評価されるほどの行動をしていました。
四納言の一人として数えられる一方で、希望した昇進は叶わなかったことから、藤原斉信も歯痒い思いをした貴族の1人になるでしょう。