陰陽師と聞くと、「安倍晴明」を連想する人が多いでしょう。
平安時代に陰陽道を成立させた安倍晴明は、様々な奇跡を起こしました。
それらは後世でも語り継がれており、誰もが聞いたことがあるはずです。
ところで、安倍晴明はどのような人生を送ったのでしょうか?
今回は、安倍晴明の生涯とエピソードをご紹介します。
安倍晴明の生涯
安倍晴明は、鎌倉時代から明治時代の初めまで陰陽寮を統括した安倍氏流土御門家の祖と言われていますが、生涯について詳細なことは分かっていません。
そんな安倍晴明は、一説によると大膳大夫・安倍益材の子どもであると伝わっています。
921年に生まれたとされる安倍晴明は、陰陽道を陰陽師であった賀茂忠行・保憲父子に学んだとされています。
加えて天文道も伝授されており、40歳の頃天文得業生であった安倍晴明は、村上天皇に占いを命ぜられていたほど信頼されていました。
政治的な面における出世は遅れていましたが、天皇から命じられていたように、占いの才能に関しては貴族社会ですでに認められていたのです。
そして977年、加茂保憲が亡くなって以降から、陰陽道で頭角を現すようになります。
979年、安倍晴明が59歳の時、那智山の天狗を封ずる儀式を師貞親王(後の花山天皇)の命で行います。
この頃から安倍晴明は花山天皇の信頼を受けるようになり、儀式や占いの記録が残されています。
また、花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めました。
例えば、一条天皇が急病で伏せった際に、安倍晴明が禊を奉仕したところ、病が回復したというエピソードが『小右記』に記されています。
村上天皇、花山天皇、一条天皇と時の天皇に貢献していることから、ここでも頼りにされていた様子が分かります。
ところで、安倍晴明の仕事は陰陽師だけでなく、天文道で培った能力を買われ、地方財政を管轄する主計寮で主計補助を務めました。
左京権大夫などの官位を歴任すると共に位階は従四位下に昇りつめ、2人の息子も天文博士、陰陽助に任ぜられます。
安倍晴明の活躍により、陰陽道の家としての地位が確固たるものとなり、なんと加茂氏と並ぶ名家になりました。
遅咲きの昇進でしたが、成功を収めたのです。
安倍晴明のエピソード
陰陽師として数々のエピソードを残している安倍晴明ですが、実は死因についても詳しいことが分かっていません。
安倍晴明と思われる墓が幾つか存在しており、どこでどのような形で亡くなったのかも史料がないため不明なのです。
ですが、安倍晴明は84~85歳くらいまで生きていたと考えられており、当時の平均寿命からするととても長生きだったのです。
さらに現代の感覚からするとある程度高齢になれば仕事を退く人もいますが、安倍晴明は違いました。
晩年も儀式などで積極的に活躍しており、現役で働いていたのです。
そのような安倍晴明には、母が妖狐でないかというエピソードがあります。
安倍晴明には大膳大夫・安倍益材の子どもである他に、右大臣阿倍御主人や阿倍仲麻呂の子孫、阿部氏の一族である難波氏の末裔でないかと考えられている説があります。
それに加え、安倍保名が信太の森の妖狐を狩人から助けたことで恋仲になり、それで生まれたのが安倍晴明だと考える説もあるのです。
この説から考えると、安倍晴明には妖怪の血を引いていることになりますので、陰陽師として様々な呪術の扱いが優れていたことにも頷けます。
また、妖怪の血を引いていることで、安倍晴明が長生きできたことにも説明がつくのです。
妖怪と人間の寿命は、大きく違います。
上記のようなルーツを持っていたからこそ、安倍晴明が強い生命力を持っていたことで長生きできたと考えられるのです。
とはいえ、母が妖狐のエピソードが関係なくても、安倍晴明は幼少期から鳥と会話できたり、人に見えない鬼を見ることができたりすることができたとされています。
霊力については安倍晴明に限らず、妻と考えられている梨花にもあったとされているため、全ての人に備わっている力でないにしろ、珍しい話でなかったのでないでしょうか。
謎の多い人物ではありますが、安倍晴明は花山天皇の命で天狗を封じた他、賀茂忠行を鬼から救ったり、藤原道長をライバル呪術師の蘆屋道満の呪いから救い守ったりしました。
数々の軌跡を起こしたことには、変わりありません。
当時の貴族たちが驚いたように、現代でも安倍晴明の活躍を知った多くの人の心を掴んでいます。
私たちが連想する陰陽師の仕事は、呪術を用いて妖怪などの敵と戦うことでしょう。
しかしながら、実際の仕事は重要な決断の吉凶を占うことがほとんどでした。
一見すると地味ですが、とても重要な仕事です。
今でも陰陽師という仕事にロマンを与えているのは、安倍晴明の数々の伝説のおかげになるでしょう。
まとめ
今回は、安倍晴明の生涯とエピソードをご紹介しました。
安倍晴明は詳細が不明なところもありますが、一代で陰陽道の家としての地位を築き上げました。
さらに当時の平均寿命からすると長生きだったことから、母が妖狐で妖怪の血が入っているのでないかというエピソードもあるくらいです。
藤原道長の命を救った人物でもありますから、平安時代に限らず現代においても信頼できる陰陽師として紹介されるのは自明の理でしょう。