豊臣家の家臣の中でも人気の高い真田幸村は、大坂夏の陣で大活躍しました。
史料が多くある一方で、真田十勇士を従え徳川家康に挑むという創作が現代でも親しまれています。
ヒーローの印象を持つ真田幸村ですが、なぜ人気があるのでしょうか?
今回は、真田幸村の生涯とエピソードをご紹介します。
真田幸村の生涯
真田幸村は、信濃の豪族で武田家家臣の真田昌幸の次男として生まれます。
通称は源二郎で、祖父の頃に武田信玄に帰属していましたが、1582年に武田氏が織田・徳川連合軍に敗れると、それからは織田信長に恭順しました。
しかし、本能寺の変で織田信長が亡くなると、徳川、上杉、北条に囲まれていたため、追従する相手を変えて生き延びていきます。
最終的には上杉家に落ち着き、真田幸村は19歳の時、越後に人質として送られることとなりました。
豊臣秀吉が台頭すると、父真田昌幸は服属し、真田幸村も馬廻衆を務めていたことから、独立した大名として見なされていきます。
豊臣秀吉の死後、1600年には徳川家康が会津の上杉景勝討伐のために兵を挙げた留守中に、石田三成らが兵を挙げ関ケ原の戦いが起こります。
この時真田幸村は真田昌幸と共に、西軍につくことになります。
その理由は、石田三成から書状が届いたことと、自身の妻が大谷吉継の娘の竹林院だったことにあります。
上田に戻った真田幸村と真田昌幸は、上田城で徳川秀忠軍を迎え撃ちますが、奮闘虚しく西軍が負けてしまいます。
戦後、真田幸村と真田昌幸は死罪を命じられますが、兄で東軍についた真田信之と岳父の本多忠勝の嘆願により、高野山への流罪に留まりました。
その後、九度山に移りますが、真田幸村の話はこれで終わりません。
方広寺鐘銘事件で徳川氏と豊臣氏の関係が再度悪化すると、真田幸村は嫡男を連れ九度山を脱走し、大坂城に戻ってくるのです。
そして、大坂冬の陣、大坂夏の陣に参加し、冬の陣の戦いぶりを見た徳川家康から寝返りを打診されますが、拒否し戦い抜きます。
そんな真田幸村は、夏の陣で最期の時を迎えます。
真田幸村率いる真田隊は徳川家康の本陣を攻めますが、奮闘虚しくあと一歩及びませんでした。
最期は四天王寺近くの安居神社で身体を休めていた際、通りかかった越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次により討ち取られたそうです。
この時、真田幸村は49歳でした。
真田幸村のエピソード
真田幸村は、若い頃から活躍していたのではありません。
様々なエピソードがある中でも、活躍したと言えるのは40代になってからです。
どちらかというと若い頃は人質生活を送るなどで、表立った活躍の機会が少なかったのです。
そして、活躍の場面は大坂冬の陣、夏の陣になりますから、残念ながら他の武将のように人生を通して何かを成し遂げたと言えないのです。
では、どうして真田幸村という武将の人気が高いのでしょうか。
まず、真田幸村の勇姿を、徳川方の武将である細川忠興や島津家久は高評価していることが挙げられます。
島津家久は戦場での姿を直接見てはいませんが、手紙に書かれた勇姿から「真田日本一の兵」と、有名な言葉を残したくらいです。
敵から見ても感銘を受けるような戦いぶりに、当時を生き抜いた武将だけでなく、現代人も惹かれてしまいます。
だからこそ、徳川家康は寝返らないかと持ち掛けたのです。
このような武将が戦で亡くなってしまうのは、誰でも惜しいと考えてしまいます。
そして真田幸村も戦況を見た時、寝返るという選択肢があったはずです。
それでも寝返らず、負け戦となった豊臣氏についたのは忠義の表れになります。
この点も、真田幸村が人気の武将と言える理由の一つになります。
歴史では豊臣氏が敗れることが決定的でしたが、それでも最期まで戦い抜いた姿勢が多くの人の心を動かしているのです。
逆境になればなるほど、心が折れてしまったり、自分の家の存続を考えて寝返ったりしてしまいます。
真田幸村も、もしかしたら上記のことを考えたかもしれません。
ですが、行動に移さず忠義を全うしたところが、戦国武将としての生き方として感動的だったのでしょう。
真田十勇士を率いて徳川家康と戦うという話がよく読まれるのも、屈しなかった真田幸村のヒーロー性があるからでないでしょうか。
とはいえ、兄の真田信之からすると、普段の真田幸村は物静かな人物で起こることが滅多にないと語っていますから、戦の時のイメージとかけ離れています。
また、九度山にいた際も様々な人と交流を持ち生活していたことから、戦時と平時で見せる姿は違っていたのでしょう。
時代が違えば、戦がなくても厚い人望のある人物になっていたかもしれません。
今でも多くの歴史ファンから好かれているのは、当然のことでしょう。
まとめ
今回は、真田幸村の生涯とエピソードをご紹介しました。
最初は武田信玄に帰属していましたが、追従相手を変えつつ、戦国の世を生き抜いてきました。
大きな活躍をするのは大坂冬の陣・夏の陣になり、徳川家康や徳川方の武将も魅了するくらいの戦いぶりを見せました。
寝返りを持ちかけられたこともありますが、それをせず最後まで戦い抜いたことから、今でも多くのファンがいるのです。