豊臣秀吉の正室である寧々は、妻として夫の夢を支えてきました。
子どもに恵まれませんでしたが、臣下の中には世話になった者もおり、実の母のように慕われていたそうです。
そして、寧々の言葉に周囲が耳を傾けていたなら、豊臣家は滅亡を回避していたかもしれません。
今回は、寧々の生涯とエピソードをご紹介します。
寧々の生涯
寧々は、尾張国朝日村で杉原定利と朝日殿の次女として生まれますが、豊臣秀吉のもとへ嫁ぐことに対し、朝日殿は猛反対しました。
なぜなら、武士の浅野家の養女となった寧々と、農民出身の豊臣秀吉とでは身分差が大きく、釣り合わないからです。
それでも寧々は豊臣秀吉と結婚しましたが、大名になっても朝日殿は結婚について許してくれませんでした。
そして豊臣秀吉との間に子どもがいなかったため、自分たちの親類縁者を養子や家臣として養育します。
その中には、福島正則や加藤清正、石田三成などがおり、分け隔てなく愛情を注ぎ育てました。
1574年には長浜城に転居し、豊臣秀吉の母の仲と共に生活します。
これ以降、遠征で不在になりがちな豊臣秀吉に代わり、寧々は城主代行の立場となり、城を守る役目を果たします。
本能寺の変後大吉寺に避難した後は大坂城に移り、豊臣秀吉が関白に任官した際、従三位に叙され、北政所の称号を許されます。
1598年に豊臣秀吉が亡くなると、寧々は側室の淀殿と連携し、豊臣秀頼の後見にあたります。
徳川秀忠の娘千姫との結婚を見届けた後、寧々は仏門に入り、高台院湖月心尼と称するようになりました。
このとき、徳川家康と寧々の関係は良好であったため、豊臣秀吉の死後の冥福を祈る高台寺の建立許可と資金援助を得ていたのです。
大坂夏の陣において、徳川家康の要求を聞くように説得しようと大坂城へ向かいますが、甥の木下利房に動きを封じられ、説得は叶いませんでした。
豊臣家の滅亡を見届けた寧々は、1624年に高台院屋敷にて亡くなりました。
享年76歳でした。
寧々のエピソード
当時珍しい恋愛結婚をした寧々ですが、豊臣秀吉の女好きにはたいへん悩まされました。
浮気に悩む寧々に対し、織田信長も気遣ったくらいです。
そんな寧々ですが、豊臣秀吉の政治において、なくてはならない存在でした。
しかしながら、寧々自身の力ではどうにもならないことも起こります。
それは、豊臣秀吉との間に子どもが生まれなかったことです。
それが影響して、一時期豊臣秀吉から辛くあたられていたことがあったようです。
さらに、豊臣秀吉は迎えた側室淀殿との間に豊臣秀頼を儲けたことがきっかけとなり、どんどん不仲になったのでないかとされています。
同時に、世継ぎを産んだ淀殿の影響力が大きくなったため、寧々と対立したとも考えられています。
豊臣秀吉と寧々の結婚生活は、幸せなことばかりではありませんでした。
とはいえ、寧々のことをずっと正室として扱っていましたから、大切にされていたことに変わりないでしょう。
また、最近の研究では、寧々と淀殿は対立関係でなく、豊臣家存続のため協力し合っていたのでないかと考えられています。
不仲を理由に豊臣秀頼の味方にならなかったと考えられている寧々ですが、実際は豊臣家存続のため、別の方法を探していたのかもしれません。
その結果、徳川家康に従うことを考えたのでしょう。
同じ目的を持っていたとしても、手段が違えば相いれません。
政治力に優れていた寧々でしたが、豊臣家の滅亡を防ぐことまではできず、悔しい思いをしたはずです。
ところで、徳川家のある人物と寧々は親しいことで有名です。
その人物とは、徳川秀忠です。
徳川秀忠が12歳の時、人質として豊臣秀吉のもとへ送られてきたことがありました。
その時、身柄を預かったのが寧々と奥女中であった孝蔵主です。
以前から寧々は人質となった子どもの養育をしていたこともあり、徳川秀忠に対し優しく接し、様々なことを教えました。
徳川秀忠は、寧々から髪のゆい方や装束の着方を教わっており、人質といっても安心できる場所で過ごせたのです。
当時の人質生活は、いつ命を落とすことになるのか、不安がつきものです。
それでも手厚い対応をしてくれた寧々に対し、徳川秀忠は恩義を感じ、京都に入る際に必ず訪ねていたそうです。
このように、寧々に実子はいませんでしたが、養育された過去から親しい関係になった人物が多くいます。
実際に加藤清正や福島正則は、徳川家康との関係についてのアドバイスを求めに、寧々の所へやってきたのです。
様々な形で慕われているのは、寧々の人柄によるものです。
豊臣家滅亡のきっかけの人物とされていますが、人望があり、豊臣秀吉から頼りにされていたことは事実です。
寧々の影響力があったからこそ、豊臣政権は上手くいったのです。
まとめ
今回は、寧々の生涯とエピソードをご紹介しました。
豊臣秀吉との結婚後は、城主代行になるなど、夫不在時の政務を支えるなどサポート役として活躍します。
残念ながら世継ぎには恵まれませんでしたが、養育した子どもたちに分け隔てなく愛情を注いだことで、成長してからも訪ねてくるほど慕われていました。
寧々の政治に対する影響力は大きかったのですが、豊臣家の滅亡を防げなかったのは心残りだったことでしょう。