女流日記の先駆者「藤原寧子」(藤原道綱の母)

歴史


野心のあった藤原兼家に翻弄されたのは、政治の世界の人々だけではありません。
彼の妻となった女性たちもまた、人生を翻弄されたと言えます。
その様子は、藤原寧子の『蜻蛉日記』から知ることができます。
藤原兼家と結婚し、どのような人生を送ったのでしょうか?
今回は、藤原寧子の生涯とエピソードをご紹介します。

藤原寧子の生涯

藤原寧子は、936年頃に藤原倫寧の娘として生まれます。
その生涯は、幸せばかりではありませんでした。

藤原寧子が記した『蜻蛉日記』には、様々な出来事が書かれています。

藤原兼家と和歌の贈答が始まり結婚、藤原道綱を儲けますが、他の女性のもとへ通ってしまいます。
藤原兼家の正室である時姫と競ったり、次々と現れる妻妾に悩まされたりします。
その他にも旅に行った時の話や藤原道綱の成長と結婚話、藤原兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取り、養女の結婚と破談話について書かれています。

『蜻蛉日記』は、藤原寧子の39歳の大晦日で筆が途絶えているため、それ以降の詳細は不明です。
これは、没年より約20年前のことだそうです。

藤原寧子の容姿について、『尊卑分脈』では日本で最も美しい女性3人のうちの1人と書かれていますが、本当かどうかは不明です。
ですが、和歌が得意だったことは事実であり、平安時代中期の歌人としても知られています。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の1人に選ばれているくらいですから、藤原兼家の目に留まったのも必然だったのかもしれません。

藤原寧子のエピソード

藤原寧子の『蜻蛉日記』には、幸せな時間もあったものの、藤原兼家に対する恨み言が記されています。
それを読むと、藤原兼家の浮気性に悩む藤原寧子に共感する人もいるでしょう。
しかし、『蜻蛉日記』をどのような日記として捉えるのかで、学説が分かれています。

1つは記載された内容の通り、藤原兼家に対する恨み、復讐として記されたと考える説です。
もう1つは、藤原兼家の宣伝として記されたと考える説です。
その理由は、『蜻蛉日記』内に記されている藤原兼家の和歌にあります。

藤原兼家とのやりとりでは和歌を用いることもあり、『蜻蛉日記』では多数見ることができます。
単にやりとりを丁寧に記しただけかもしれませんが、藤原兼家は野心を抱く人物で、実際に権力を握ることに成功しています。
そのような人物のプライベートな面が分かる書物があると、藤原兼家の評判が広がるのは確実でしょう。

そのため、藤原寧子は藤原兼家と協力して『蜻蛉日記』を記したのでないかとされているのです。
花山天皇を出家させ、退位に追い込んだ藤原兼家なら、自分に有利に働く物を見逃さないでしょう。

また、藤原寧子は清少納言の『枕草子』にも登場しています。
それは、お寺で仏教の集会である法華八講が催された際に詠まれました。
「薪こる ことは昨日に 尽きにしを いし斧の柄は ここに朽たさむ」

薪を切るような千部の経供養は、昨日で終わりました。
「斧の柄」ならぬ「小野の縁」で桜を見て、「斧の柄」が朽ちるほどの長い時間を楽しみましょうという意味です。
この和歌を清少納言はとても褒めていたため、素晴らしさもあって枕草子に登場したのでしょう。

確かに藤原寧子は、裁縫が上手で和歌の才能があるといった、平安貴族の女性にとって必要な知識やスキルを身に着けています。
さらに美人であったことから、ひょっとすると女性としての憧れもあったのかもしれません。

清少納言との関係は、これだけではありません。
実は、親戚関係にあるのです。
清少納言の姉と藤原寧子の兄である藤原理能が結婚しており、お互いに知っている間柄だったのです。

しかし、藤原寧子と清少納言は年が30歳近く離れているため、年上のお姉さんとしての感覚に近いと言えます。
『蜻蛉日記』は女流日記の先駆けと言われており、藤原寧子のことを思い出しながら、清少納言も『枕草子』を記したと考えると、感慨深いです。

また、『更級日記』の作者である菅原孝標女ともつながりあります。
菅原孝標女の母は藤原寧子の妹であるため、叔母と姪の関係にあたるのです。
女流日記つながりで見ると、周囲に才能に溢れた人物がいたことが分かります。

最後に、『蜻蛉日記』には藤原兼家や藤原道綱、自分のことばかりを記しているわけではありません。
時には、政治の動向についても触れていることがあるのです。

例えば、安和の変により源高明が流罪となり、世間を騒がせていることについて触れていることが挙げられます。
藤原寧子も悲しく思うことを記していることから、この部分から直接政治の世界に関わっていなくとも、女性や世間が事件についてどのように思っていたのかが分かります。

これを知ると、『蜻蛉日記』は単に恨み言ばかりの日記だと見ることはできないでしょう。

まとめ

今回は、藤原寧子の生涯とエピソードをご紹介しました。
『蜻蛉日記』の中には、藤原兼家との結婚生活や自分から離れていってしまったこと、藤原道綱のことが記されています。
清少納言と親戚関係だったり、姪に菅原孝標女がいたりと、文学面に才能ある人物が周囲にいたことも有名です。
『蜻蛉日記』を恨み言のために記されたのか、藤原兼家の協力のもと宣伝のために記されたのか、学説は分かれています。

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