2023年10月から、NHK連続テレビ小説の「ブギウギ」が放送されています。
ブギウギの中で、主人公のライバルとして登場するのが茨田りつ子です。
モデルとなったのは、日本初のシャンソン歌手として有名な淡谷のり子ですが、どのような人物だったのでしょうか。
淡谷のり子について、紹介します。
淡谷のり子さんの生涯
青森県青森市の老舗呉服屋に、1907年8月、長女の淡谷のり子さんが生まれました。
しかし、淡谷さんが3歳の時に青森市で発生した大火によって家が焼失してしまい、火事による損失がきっかけで呉服店は倒産してしまいます。
淡谷さんの父は呉服店の再建を目指していましたが、一方では酒や女遊びにふけていたため淡谷さんの母が愛想を尽かし、父を置いて母と妹と淡谷さんの3人で上京しました。
東京では貧しい日々でしたが、東洋音楽学校に入学した淡谷さんはオペラ歌手を目指します。
1929年には、努力が実を結び声楽科を首席で卒業しました。
同年の春に開催されたオール日本人新人演奏会では東洋音楽学校を代表して歌い、10年に一人のソプラノと褒めたたえられます。
しかし、貧しい生活からは抜け出すことができず、淡谷さんはクラシック歌手から流行歌手への転身を決意します。
1930年1月には、ポリドールというレコード会社からデビュー盤である「久慈浜音頭」が発売されました。
翌年の1931年に日本コロムビアへ移籍し、1935年に歌った「ドンニャ・マリキータ」はシャンソンとしてヒットし、日本のシャンソン歌手のパイオニアと認められるようになりました。
そして、淡谷のり子さんが30歳の時に、歌手人生を大きく変える「別れのブルース」がリリースされます。
同年に日中戦争がはじまり、戦時中には似つかわしくない哀愁を帯びた音色の曲ということで不安はありましたが、発売してみると大ヒットとなり、慌てて増産に取り掛かるほどでした。
戦後は様々なレコード会社へ移籍を繰り返しながらも活躍を続け、1953年には第4回NHK紅白歌合戦に初出場を果たしました。
晩年まで歌うことをやめず、常に人前に立ち続けた淡谷さんは1999年、享年92歳で亡くなりました。
淡谷のり子さんのエピソード
「ブルースの女王」とも言われた淡谷のり子さんですが、具体的な人物像はどのようなものだったのでしょうか?
特徴的なエピソードについて、解説します。
淡谷さんの人物像を知るために重要なのが、叔父のコメントです。
叔父は、淡谷さんが「ジョッパリ(強情張り)でなくカラキズ(もっと強情張り)だ」と性格を表しています。
叔父の評価が正しいことは、戦中の慰問活動の様子からもわかります。
当時、贅沢は敵だといわれていて、モンペやはかまなどの質素な身なりが奨励されていましたが、淡谷さんはパーマをかけてドレスに身を包んでいました。
さらに、軍部からの要請があっても軍歌は慰問先で歌うことはなく、生きて帰られないかもしれない兵士らの心を慰めながら別れのブルースなどを歌っていました。
また、イギリス人やアメリカ人の捕虜がいる場面では、彼らに向けて英語で歌ったり恋愛ものを多く取り上げたりといった行為を続けたのです。
問題となる行動の結果、帰国後に書かされた始末書はかなりの厚さがあったと言われています。
まとめ
淡谷のり子さんは10年に一人のソプラノと褒めたたえられましたが、クラシック歌手として活動するだけでは貧しい生活から抜け出すことができず、流行歌手へと転身しました。
転身は成功で、「別れのブルース」など数々の名曲を歌った日本のシャンソン歌手のパイオニアとなり、やがて「ブルースの女王」と呼ばれるようになります。
80歳を過ぎても最後まで歌い続けていた淡谷さんは、自身の生涯を全て歌に捧げた人物でした。