藤原道長は、平安時代の政治家であり後一条天皇の摂政として権力をほしいままにしていた人物であり、複数の妻を娶っていました。
正妻である倫子を除くと、有名なのが源明子です。
源明子は、どのような人物だったのでしょうか?
源明子の生涯と、特徴的なエピソードを解説します。
源明子の生涯
源明子(みなもとのめいし/あきこ)は、975年に左大臣源高明の娘として生まれました。
高明は醍醐天皇の第十皇子なので、明子は醍醐天皇の孫にあたります。
当時は、醍醐天皇の第十四皇子である村上天皇の第五王子の、第64代天皇の円融天皇が即位していました。
高明は、藤原氏が他氏を排斥しようとした安和の変で謀反の密告をされて失脚してしまったため、叔父の盛明親王の元に養女として出されました。
盛明親王は、醍醐天皇の第十五皇子です。
盛明親王が986年に死去すると、東三条院藤原詮子の庇護を受けることとなります。
従兄弟である藤原道長と結婚しますが、道長はすでに源倫子と結婚していたため、明子は妾妻という立場に据え置かれます。
1049年、74歳で亡くなっています。
高松殿に住んでいた明子は、高松殿と呼ばれるようになります。
父の高明は、源姓を賜った920年頃に高松殿の鎮守として高松神明神社を造営しており、現在も残されています。
道長の正妻である倫子は、現職大臣の娘として道長の出世を助けることができたのですが、明子の父はかつて左大臣だったものの失脚しているうえ、故人となっているため、明子には道長の出世を助ける力がありませんでした。
持つ力の違いから、倫子との間に生まれた子供たちは嫡子として扱われ、入内して著しく昇進していきました。
しかし、明子の子供たちは十分な助けがなく、倫子の子供よりも下までしか出世できないように限定されていたのです。
子供たちは倫子の長男である嫡兄の頼通と協調して出世を図ったのですが、明子の三男である能信は拒絶して頼通と口論をしたことで、道長の怒りを買ったこともあったといわれています。
出世をもくろむ兄弟と協調しなかった能信は、即位前の後三条天皇を強く庇護していて、将来的には院政での摂関政治の凋落へとつながっていきました。
ただし、能信は後三条天皇の即位を見届けず、死去しています。
源明子のエピソード
源明子は、道長の妾妻であったため、正妻である倫子とは違って公の場へと道長と一緒に出ることはほとんどありませんでした。
明子のエピソードにはどのようなものがあるか、解説します。
明子は倫子よりも後に結婚したのですが、道長との間に設けた子供の人数はどちらも6人です。
しかも、2人ともほとんどの場合は並行するように妊娠、出産を繰り返しているのです。
気になるのは最後の子供で、明子が6人目を生んだのは1005年、一方で倫子は1007年に43歳という高齢で出産しています。
もしかしたら、明子にだけ6人目の子供がいることが許せず、無理をしたのかもしれません。
明子の子供は、倫子の子供よりも出世しないよう制限されていたのですが、末子の長家は倫子の養子になっています。
しかし、兄たちが最高位に就いたまま長く健在だったため、正二位の権大納言が極官となっていて、長家は24歳から権大納言に据え置かれました。
明子は、道長が失脚を図った東宮敦明親王を、娘の寛子の婿に迎えました。
小一条院とも呼ばれる婿との仲は良好で、ともに桟敷見物なども行い、両者の緩衝となる重要な役割を果たしています。
まとめ
源明子は、天皇家に連なる高貴な血筋でありながら父は藤原氏の謀略によって失脚し、養子になった叔父は若くして亡くなってしまい、藤原詮子の庇護を受けるという複雑な運命をたどっています。
結婚後も、すでに倫子という正妻がいる道長の元に嫁いだため、妾妻として日陰の身になってしまいました。
妻同士の確執などもあり、幸せな結婚生活だったとは言い難かったのかもしれません。