織田信雄は、戦国時代から江戸時代初期にかけて激動の乱世を生き抜いた織田信長の次男(一説には三男)です。
かつては愚鈍な凡将と評されることも多かったのですが、近年の歴史研究ではしたたかな処世術が高く評価されているのです。
数々の逆境を乗り越え、織田家を後世へと残した織田信雄の生涯を解説します。
本能寺の変が起こるまで
織田信雄は1558年に織田信長が深く寵愛した側室・生駒吉乃を母として信長の次男として尾張国で生まれたのです。 若くして本能寺に散った嫡男・織田信忠の実弟にあたり、幼名は茶筅丸(ちゃせんまる)と名付けられました。
1569年に信長が伊勢国の国司であった名門・北畠具教を下すと、和睦の条件として茶筅丸は北畠家の養子となったのです。
織田家による伊勢支配を強固にするための政略結婚であり、元服した信雄は北畠具豊を名乗りました。
1576年に信雄は父・信長の意向を受けて実権を握り続ける北畠一族の暗殺を断行し、北畠家を完全に実質的な織田領へと組み込むことに成功したのです。
しかし自らの武功を焦った信雄は1579年、信長に無断で隣国・伊賀国へ侵攻したものの独自のゲリラ戦法を得意とする伊賀の土豪軍に大敗を喫しました。
信長からは親子の縁を切ると書状で猛烈に叱責される大失態となり、のちに1581年信長自らが総大将となった第二次天正伊賀の乱では従軍して伊賀を照度とし平定したのです。
1582年6月、本能寺の変によって父・信長と兄・信忠が明智光秀に討たれると、信雄の運命は激変します。
信雄は光秀討伐に出陣したものの間に合わず、戦後の織田家の後継者を決める清洲会議では弟の織田信孝と対立することとなったのです。
結果として秀吉の支持によって信忠の遺児である三法師(織田秀信)が家督を継ぎ、信雄は尾張・伊勢・伊賀にまたがる大領地を得て織田家の後見役となりました。
しかし、次第に天下人としての野望を露わにする秀吉に対して危機感を抱いた信雄は反旗を翻したのでした。
1584年に信雄は五大老のひとりである徳川家康と同盟を結び、秀吉に宣戦布告して戦国最大級の激突となった小牧・長久手の戦いが起こりました。
家康の活躍によって織田・徳川連合軍が優勢に進めていましたが、秀吉の政治力によって伊勢の本領を脅かされた信雄は家康に無断で秀吉と単独講和を結んでしまったのです。
大義名分を失った家康も撤退を余儀なくされ、信雄は実質的に秀吉の臣門に下ることとなりました。
豊臣と徳川の下で
秀吉の臣下となった信雄は従二位・内大臣にまで昇進し、織田家の中での形式的な地位を保つことができていたのです。 しかし1590年の小田原征伐の後、秀吉から徳川家康の旧領である駿河・遠江・三河への国替えを命じられます。
しかし信雄は「父祖の地である尾張を離れたくない」と拒否したため、秀吉の激怒を買って全領地を没収され改易して下野国へ流罪となってしまったのです。
その後、出家して常真と号した信雄は徳川家康の仲介や秀吉への謝罪を経て許され、豊臣政権下で大名へと復帰します。
秀吉の死後に起きた1600年の関ヶ原の戦いでは東軍と西軍の間で曖昧な態度を取ったため、再び改易処分となってしまったのでした。
大坂城の豊臣秀頼の身近に仕えていた信雄ですが、1614年の大坂の陣の直前に豊臣家を見限って大坂城を退去し、徳川方に味方します。
機敏な立ち回りが功を奏し、大坂の陣の終結後に将軍・徳川秀忠から大和国宇陀郡や上野国甘楽郡などに合計5万石を与えられ、三度大名として復帰を果たしたのです。
晩年の信雄は京都に居住しながら茶の湯や能楽に没頭し文化人として穏やかな日々を過ごし、1630年に京都の北野邸にて73歳で病没しました。
まとめ
織田信長の次男であった信雄は、織田家が伊勢支配を強固にするための戦略として北畠家の養子となり、実権を握り続ける北畠一族を暗殺して実質的な織田領としたのです。 しかし武功を焦って伊賀国へと侵攻したものの大敗を喫し、本能寺の変では光秀討伐に出陣したものの間に合わず清須会議で弟の信孝と対立したものの家督は秀信が継ぎました。 挫折と屈辱に満ちた生涯でしたが、織田家を明治まで存続させたのは信雄の手柄です。


